2014年12月27日土曜日

イタリア語を話すポジションとは?

「イタリア語を話すように歌う」という表現程、ベルカント唱法の真髄をついた言回しは無いのではないでしょうか。
イタリア人が話している様子は今日ではテレビやYouTubeで見ることが出来ますが、彼らの話しているポジションを観察する事は、オペラ歌手が歌っている様子を観察する事より優先して取り組むべき事だと思います。

「話す発音の仕方と歌う為の発音の仕方は異なる」と「話すように歌う」を混同してしまう方が多いのですが、前者は万国の言語に当てはまる考え方なのに対し、後者はイタリア語を話す発音の仕方ではなく、話すポジションに対する考え方です。
イタリア語を話すように軽く、甲高い感覚で歌う事は他のいかなるテクニックを用いて試行錯誤するより遥かに効率的で、的を得た方法なのです。

オペラ歌手ではない、一般のイタリア人の話し方はかなり口を横に開く特徴的なもので、この事が彼らの豊かな表情を作る要因の一つになっていますが、日本人のオペラ歌手がこの発音の仕方を真似てしまうと、喉の開き方が不完全な状態になり易く、思うような結果を得ることが出来ません。
我々が学ぶべき事は「その甲高さや母音の発音がどのように声のポジションに影響を与えているか?」という点です。この点を理解する事で喉への負担を大幅に軽減する事が出来、歌う為に必要な最小限の筋力だけで歌えるようになるのです。

日本のテレビで活躍しているイタリア人の日本語の特徴的な話し方を観察してみて下さい。その話し方で友人に話しかければ「変な人!」の烙印を押されるかもしれませんが、そのまま歌ってみれば「上手いじゃん!!」に変わるかもしれません。(^o^)

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2014年12月16日火曜日

声を当てるポジションは前か後ろか?

声を当てるポジションを前にするか後ろにするかで悩んでいないでしょうか?
日本では「声は奥から回して前で響かせる」と声の道筋を作って発声している人が(特に女声に)非常に多いように感じます。
実際にこのような出し方をしている人の声を間近で聴くと、確かに喉はよく開いており、響きも前に集まっているように感じます。小さなホールで聴いても安定した声と感じさせられる声です。

舞台が世界に移ると、この印象は大分変わってきます。
欧米や韓国、中国の歌手を聴くと、確かに声を後ろから回しているように喉が開いて、顔の前に響きが集まっているように感じます。一見同じ事をしているように 思える日本人の歌手を同じ舞台で聴くと声質が云々というより、響きが身体から離れきっていない印象をどうしても受けてしまいます。特に男性歌手でこのような出し方をしている人は上の5線の近くの音になると、他の国の歌手とはかけ離れた、全く異質な声を出していると感じざるを得ません。
女性ではこのパッサッジョ付近の音域で男性ほどの不自然さを感じることはありませんが、その事が逆に、外国人歌手との差を歌っている当人に感じにくくさせている要因になっているような気がします。
もっとも、この日本人歌手も日本人だけに囲まれて歌っていれば、そのような印象を聴衆に与えないで、もっと高い評価を得られるのでしょうが・・・・・・・~_~;

声を当てるポジションの前後関係というのは『結果的に感じる感覚』であって、"当てよう" とするものではありません。
"意識的に" 声を当てる場所は存在してはいけないのです。
結果的に『歯の裏に当たっている』『外で鳴っている』『軟口蓋が上がっていた』といった様々な感覚により前や後ろに感じるからといって、その経路を辿るような出し方をしていたのでは欧米人のようなインパクトのある立体感のある声を出すことは出来ません。

私はレッスンをしていて「すぐに外!」という表現をよく使うのですが、分析するのが大好きな人は、声の経路を省いたその説明だけでは仲々納得してくれません。
現在主流となっている横隔膜の使い方や喉周りに注視する方法で習われている方々には殆ど理解して頂けない変な自信もあります。(^◇^;)

「すぐに外!」でなければならない理由を納得して理解してもらうには、本番で思うように歌えなかった時の状態を思い出してもらうのが一番です。
お客様を前にして息や声の伝達経路を確認しながら歌えば必ず声の問題が起こります。
その原因を体調不良や、テクニックの欠陥に結びつける前に絶対に考えなければならないことがあります。

「テクニックを考えずに感情に委ねて歌えていたか?」

もし答えがYesならば声は「すぐに外!」だったに違いありません。
逆に、歌った本人がテクニックを考えずに感情だけで歌えたと思っていても、聴いた人がそう感じなかったとしたら、歌い手側に感情以外のテクニックについての何らかの意識が芽生えていた証拠です。

「すぐに外!」が意味する外とは "身体の外" ではなく、「声のポジションは前か後ろか?」と考える "思考の外" なのです。

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2014年12月13日土曜日

本番の舞台で最も支えになる事

ミニコンサート&ミニ発声講座と題した地元密着のイベントを昨日行いました。
前半に私が10曲ほど歌った後、休憩を挟んでベルカント唱法のプレゼンテーションを行い、最後に一番最近に入った生徒さんに一曲歌ってもらいました。

今回はコンサートが加わった為、前回に比べてかなり多くの参加者の前でのプレゼンテーションになりましたが、興味を持たれた方々は前回と同様に熱心にメモを取られていました。人前でプレゼンをするのはまだ2回目、本当に手探り状態の中、やって良かったと心から思えた瞬間でした。

ところで、みなさんは本番の舞台で何を心の支えにしていますか?
それまで培ってきたテクニックでしょうか?
それとも信頼出来る先生の言葉でしょうか?
特別な存在の人が支えになる場合もあります。

生徒さんが歌う時に私は必ずお願いしていることがあります。

『人の前で歌う時に決してテクニックを考えないこと』そして、ある感情を持って歌うこと

人間は自分一人で歌っている時と、人を前にして歌っている時では明らかに違った体の反応をします。
一人で歌っている時、仮にそれが上手く歌えている時であれば、そこには『満足』が存在します。
人を前にして歌う時、いくら直前までは上手く歌えていたとしても、そこには満足ではなく、「上手く歌えるだろうか?」という『不安』が満足にすり替わって存在し始めます。

ジュリアーノ先生はレッスン時に私が不安げな無機的な声を出すと「Seiya   何が不安なんだ? お前は声もテクニックもある。でもそこに不安が存在したら、声もテクニックも何の意味もなくなるんだ!」とよく激怒されました。
そして発声のテクニックで最も重要な言葉を付け加える事を決して忘れませんでした。
愚かな私は、自分の生徒にはしつこい程この言葉を繰り返し浴びせているのに、自分が歌う時には他の事で頭が一杯で、つい忘れてしまい、不安定な声を出してしまう事が今だに多くあります。

" 幸せな気持ち(felice)で満足して(contento)歌うこと"

人前で上手く歌えなかった時、そしていくら考えてもその原因が見つからなかった時、
自問自答してみて下さい。きっと答えが見つかる筈です。

「自分は自分の声を信じて満足して歌えていたか?」

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2014年12月11日木曜日

レッスン室の音響について

声楽家を志す学生が、日々の練習で使う音楽学校の練習室をご存知でしょうか?
二、三畳ほどの空間にアップライトピアノが一台置かれており、残った一、二畳ほどの空間の中で学生は日々発声練習を行っています。
私はかねてから、学校が声楽の練習にこのような狭い練習室を使用させる事に疑問を持ち続けていました。
学校によっては練習室の使用料に金額を上乗せすれば、広い部屋を貸し出してくれるところもありますが、経済的負担から、ほとんどの学生は狭い練習室の中で練習をしています。その結果がもたらすのは「練習室の中でだけ存在感のある声」いわゆる "傍鳴りの声" の完成に他なりません。

私が学生だった時、あるプロ歌手のお宅にお邪魔し、スタジオのように広く豪華な練習室に驚かされた事がありました。当時自分が住んでいたボロアパートでは声出しも出来なかった為、学校の狭い練習室が私の "声を作る場"でした。まだ声楽の勉強を始めて間もなかったにも拘らず、「こういった環境で声も将来も決まるのかなあ〜」などと漠然とした不安を感じた事を思い出します。

今考えてみると、実家から通っていた学生は殆ど学校の練習室を使っていなかったように思います。恐らく彼らの家には防音の施された大きな部屋があったのでしょう。
声楽の場合、良い先生に巡り合える事と同様に、練習室の環境は非常に重要で、組み立て式防音室の狭小空間や、狭い練習室の中では大劇場で必要になる頭声の感覚をマスターする事が極めて難しくなってしまいます。ある程度の広さがあり、残響が多すぎない部屋の方が正しい声のポジションを掴むには絶対に有利なのです。

狭小空間で練習するくらいならば、私はカラオケボックスが安く使える時間帯に行って練習する事をお勧めします。下手に防音付きの部屋を借りるより安く済み、会社勤めの人なら仕事帰りに寄って発声をする事で声を磨き上げる事が出来ます。そうやって努力を続けた人達がオーディションやコンクールに挑めるような環境が実現出来れば、日本の声楽を取り巻く環境はもっと盛り上がっていくのではないでしょうか。
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2014年12月4日木曜日

ホールとレッスン室で歌う感覚の違い

本番を前にホールで練習する事は非常に重要な事です。
普段練習している狭い防音室や練習室で確認出来る響きや骨伝導を通した聞こえ方は、ホールでは全く異なる感覚で自分には聴こえて来るからです。

一般的に、一個人がホールで歌えるのは本番や合わせの時ぐらいで、場合によっては、合わせも防音室で行われることが多いので、本番で音響の異なったホールの感覚が掴めた時は、既に一曲歌い終えていたという事になり、舞台慣れしていない人にとってはこういった状況で本番を迎える事が相当なプレッシャーを生むことに繋がる可能性があります。

年間を通してホールで歌う機会の多い歌手であれば問題はありませんが、例えプロとして活動している声楽家であっても、その活動の中心となる場所が音楽ホールではない場合、定期的にホールを借りて練習する事は非常に重要な事です。

耳の肥えたクラッシックファンはオーケストラの録音を聴けば、どこの国のオーケストラの演奏か分かるといいますが、オーケストラの音色が作られる要因の一つに「どのような練習場所で普段の練習がなされているか?」という、環境要因があります。
歌劇場専属のオーケストラであれば、劇場で練習する時間が多いので、団員はそこでの反響音を聴いて、自分と楽器との奏法上のバランスを取ります。
例え海外での引越し公演で練習会場が変わっても、普段練習している時の楽器とのバランスは体に染み付いているので、奏法が練習会場の音響に影響されることがないのです。

声楽の場合、自分の身体を楽器にするという特別な使い方が、自分に聴こえる声と実際に外で聴こえる声との差異を生むので、楽器演奏者以上の配慮が必要になるのです。
レッスン室において自分の指針としているポジションやその他の感覚が、そのままホールで通用する事は、初心者や独学で勉強した人の場合、99パーセント無いと言っても過言ではありません。
ホールの最上階に一番奥まで良く響く声、イタリアで言われる"テアトラーレな声"とは観客の耳元でバイブレーションを感じさせるような周波数が含まれた声で、練習室や狭い防音室での声がいくら巨大であっても、全くそれとは関連性の無い要素で作られたものなのです。

練習やレッスンを終えて部屋を出た時、喉に疲れが無く、爽快な開放感を感じられたとすれば、その練習は恐らく正しく行われており、練習室を出た先が "どこでもドア" を経て舞台の下手に繋がっていても安心して歌える筈です。

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2014年11月30日日曜日

声楽教師と生徒の関係

ホームページをリニューアルしたのを機会に、昨日、教室アピールの意味も込めて、初めての無料発声セミナーを開催しました。(文章が硬いとの指摘を受けましたので、今後は出来るだけ柔らかい文体を心掛けさせて頂きます (^◇^;)

今回は参加者全員が声に悩みを抱える合唱経験者で、非常に真剣に話を聞いて下さり、おかげさまでとても充実した雰囲気の中、話を進める事が出来ました。

クラッシックの発声とそれ以外のジャンルとの発声の違いや、専門的なベルカント唱法の歴史、発声の秘密などをレクチャーしましたが、参加者の反応の中で一つ意外だったのが「声楽教師と生徒の関係」の説明の中で、非常に強い反応を多くの方が示されたことでした。

フレデリック・フースラーはその著書『うたうこと』の中で合唱を歌う事の喉への悪影響について触れていますが、合唱団に所属した事で得られるコミュニケーションの楽しさや音楽に関われる喜びは、誰にでも捨てがたい魅力がある事でしょう。
そういった魅力に惹かれて続けていける人に、私が声への影響を云々言うこと自体、的外れである事は充分承知しており、そういった考え方も尊重します。

今回参加された方々が仰っていたのは、ボイストレーナーの先生を前にすると、専門的な発声方法の難しさと緊張感で委縮してしまい、身体がこわばって声が逆に出にくくなってしまったということでした。

イタリアで声楽の個人レッスンを受けてまず驚くのは、どんなに有名な先生であっても日本人の先生のように、上から目線で指導をする事がないということです。
これはイタリア人のフレンドリーな気質からくる影響もあるかと思いますが、それよりもっと本質的なこと

「歌いたいという欲求が心に宿っているから歌うことができる。」

ということを指導者が本能的に理解しているからだと思います。
イタリア人を形容する言葉で
Cantare(歌い)、Mangiare(食べ)、Amore(愛する)というのがありますが、彼らにとって『歌う』ということは人間の本能的な欲求の一つなのです。

私は日本人の声楽レッスンの中で、先生と生徒の対等的な関係、むしろ生徒の方が上、という関係を作ることは非常に重要な事だと思います。何故なら「(先生に指摘された事を)行おう」と意識する身体の使われ方は、既に自分の声を確認する内向きの使われ方になっているからです。私のレッスンでは指摘された事の受け取り方を事前に決めています。

「そんなこと分かっているよ」

生徒がこのように私の指摘を受け取る事で、身体の使われ方は観客を前に歌うのと同じような状態に近づきます。
この意識の違いは非常に大きいので、大先生を目の前にしても委縮しないで、心で笑ってみて下さい。

「そんなこと分かっているよ(^o^)」

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2014年11月26日水曜日

ホームページリニューアルのお知らせ

既にお気付きの方もいらっしゃるかと思いますが、ホームページのデザインと内容を一部リニューアルしました。
より分かりやすい文体と、曖昧な箇所の具体的説明、配色、スペース等の修正を意識して読みやすくしました。・・・が、 まだ読みにくかったり、文体が硬い (^^;; 所も多いかと思います。
アクセスのページからお問い合わせ頂ければ、分かりにくい箇所は適宜修正していくつもりです。また、発声についてのご質問にもお答え致しますので、ご意見ご感想、お待ちしております。
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2014年11月11日火曜日

messa di voceはベルカントの試金石

声楽の教本を読むと必ず出てくる用語にmessa di voceがあります。イタリア語を直訳すると『声の設置』とでもなるでしょうか。似た用語でmezza voce(半分の声、つまり、息が半分混ざった声という意味)があるので、混同しやすいのですが、全く別の技法です。

messa di voceの解釈は人によって様々で、声楽教本によって解釈が異なっている場合もあり、初心者にとっては本質が非常に分かりにくいテクニックです。
この技術はカストラートが全盛期の頃は恐らく、当たり前のように聴くことが出来たのでしょう。残念ながら、現代ではその超人芸に接する事は出来なくなってしまいました

messa di voceの共通した認識として、"声のピッチ、ポジションを保ちながらクレッシェンドで声量を増幅し、頂点からデクレッシェンドで声量を減らしていく" というイメージがあり、youtubeなどの動画でも幾つかの例を参考にすることが出来ます。
これらの動画を参考にする時、気を付けなくてはならないのが、男声と女声では音域によって事情が異なってくるという事です。

男声、女声共、低声から中声でmessa di voceを行う事は比較的容易であり、初心者でも何も教えていないのに、既にバランスを伴って身につけている人を時々見かけます。
これが音が高くなり、パッサッジョを越えた音域になってくると、女声では正しいテクニックを身に付けた者でないと、喉が閉まり、実現困難になってくるのです。
欧米では学生でも比較的多くの人が出来ているこの技術ですが、声が喉に貼り付く傾向が強い日本人においては、一部の一流の人を除いて、あまりお目に掛かった記憶がありません。ピッチやポジションが間違っている限り、messa dI voceは決して実現出来ないからです。

男声においては、パッサッジョを越えた音域で難しくなるというより、世界中の一流歌手を見ても、この音域でクレッシェンドしてからデクレッシェンドが出来る人は自分が知る限りでは存在しません。(声のポジションをその箇所だけ喉奥に持って行って出す歌手は何人か聴いた事がある)
ファルセットからクレッシェンドで声量が頂点に達した所から一瞬だけデクレッシェンドに入りかける事は出来ても、女声のように、そこから声をずっと絞っていける例を見た事がありません。男声で最もテクニックがある人でも、この音域では最初からフォルテで、その後デクレッシェンドで声を絞っていくのが精一杯で、それだけでも神業と思える程の技術なのです。

messa di voceはベルカント唱法のテクニックで最上位に位置するものであり、それを実現出来るよう、日々、勉強を積み重ねる事が、男女共に我々が進むべき正しい道だと私は思います。

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2014年11月8日土曜日

ゴールが見えるということ

体力作りの為に、時々近くの市民プールに行って泳ぐ事にしている。
10年前には、どんなに死に物狂いで頑張っても500メートルしか泳ぐことが出来なかったが、最近では2キロを泳いでも、全く疲れないようになった。
時々、逆三角形体型の学生とおぼしきスイマーが猛スピードで追い抜いていくのを見て、対抗意識がメラメラと芽生えそうになるが、そういった人種は遠い先祖が魚類だったのだと思うようにし、ひたすらマイペースで泳ぐ事にしている。

距離を少しずつ伸ばしていく積み重ねによって、2キロの遠泳が可能になったが、もう一つ、息継ぎをしないで25メートルが泳げるようになった事もちょっとした自慢だ。
(v^_^)v
肺活量は人並み以下の自分が、これを達成するのは難しいとずっと思っていたが、ちょっとしたコツを掴むことによって、いとも容易く達成してしまったのだ。
そのコツは

"ゴールを見続けること"

それまで、真下を見続けながら泳いでいたのを、15メートルを過ぎた辺りから、前方の水面下に見える25メートルのラインを見続ける様にしたところ、精神的な余裕が生まれ、まるで酸素の予備タンクが備わったかのように息が長持ちするようになり、ゴール迄の腕の力の入れ具合や、水中で息を吐く割合などが自ずと理解出来るようになった。
ホームページで解説しているように、人間は明確な目標を与えると、それを確実にやり遂げようとする本能的な仕組みを持っている。
私の父は生前、76歳で癌が見つかり、「親族で76歳を超えた者はいないので、自分は77歳迄は何としても生きる」と私に話し、77歳の誕生日を迎えて数日後に息を引き取った。
目標がはっきりと見えなかったり、思い描けないと、その目標を達成することは極めて難しくなる。

声楽のレッスンにおいて、ゴールに相当する『理想の声』が出せるようになるには、
 "理想の声が出せた時の自分" がはっきりとイメージ出来ていなければならない。
勘違いしてはならないのは、"理想の声を思い描く" という事では決してないという事だ。
持って生まれた声を磨き上げる事とは、有名歌手の声に近づけるという事ではない。

"ゴールが見える" ということは即ち、そこに到達する可能性を信ずることが出来るということである。これに正しいテクニックが加わって初めて、ゴールへの到達は可能になる。
逆に、いくら正しいテクニックを学んでも、ゴールが見えていない人は、25メートルのラインを目前にして足を着いてしまうのと同じように、目の前にある『理想の声』の存在に気付かず、自分に足りないものを永遠に模索し続ける悪循環から抜け出す事は出来ない。
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2014年11月5日水曜日

フリードリヒ2世の実験

13世紀の初めにローマ帝国皇帝でフリードリヒ2世という人物がいたそうだ。言葉を教わらないで、子供がどんな言葉を話すのか興味を持ち、ある実験を行った。乳母と看護師にミルクや排泄など必要な事は通常の条件にした上で、子供の面倒を見る際、目を見てはいけない、笑いかけてもいけない、話しかけてもいけない、触れ合いを一斉してはいけないと命じた。十分なミルクを与えられていても、愛情をもらえなかった赤ちゃんたちは全員死んでしまう結果になったという。

心理学者のルネ・スピッツが、戦争で孤児になってしまった乳児55人に、同じような実験を行った結果、27人が2年以内に死亡、17人が成人前に死んでしまい、11人は成人後も生き続けたが、その多くには知的障害や情緒障害が認められたということだ。
原因について述べるのは、ここでは割愛するが、身体の成長に伴う、言葉の発達はこのように生命の存続に密接に関わっていることが理解出来る。

歌うことに適した発声器官の理想的な働きは、赤ちゃんが言葉を覚えるにつれて次第に失われていくが、人間が言葉を話す発達によって人間らしい情緒、病気に対する免疫力や抵抗力を身に付けていくと考えれば、今、成人になった我々が発声方法を教えたり、分析することが、いかに神秘的な領域なのかを実感せずにはいられない。

発声を理論だけで解明しようとしても永遠に答えが出ない気がするのは私だけだろうか?
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2014年11月3日月曜日

微笑

無料の公開授業に参加出来ると聞き、言語聴覚士を養成する医療専門学校での講義に参加した。講義を聴くという体験は、20年ぶりだったので少し緊張もしたが、新鮮な気分を味わえた。
タイトルは「子供が言葉を獲得するまで」
赤ちゃんが成長と共に言葉を話すようになる為に必要な事について学んだ。
以前から興味のある分野だったのだが、いざ、講義の中で難解な専門用語を用いて説明されると、なかなかストレートには頭に入って来ない。これが長年、脳を刺激する事を怠ってきたつけなのだろうか?(~_~;)

講義の中で、言葉を話すことが出来るようになるには、人との関係、モノとの関係、音韻の発達が重要になるという事を教わり、その中で興味深い話があった。
赤ちゃんが見せる微笑は、単なる生理的な反応から情動の共有による誘発的な反応へ移行し、最終的に大人が見せるような社会的な外部を意識したものへ変化していくという。
今まで当たり前だと思っていたことが、成長発達という仕組みがあって出来上がっている事に今更ながら気付かされた。

同じグループの参加者の中には、自分と同じ位の世代と思われる女性も2人居たが、半分以上は20代の若者だった。
学校の施設を、在学中の学生が先導して丁寧に説明してくれたが、彼らの殆どは普通大学を卒業してから全くの異分野であるこの世界を志すらしい。社会人としての経験を積んでから新たに入学する30代、40代の学生も非常に多いと聞いた。

帰りの電車の中で、中学2、3年生くらいの脳に知的障害を持っていると思われる男の子を連れた3人家族と居合わせた。
お父さんは色々な心配や心労もあるのだろう。無表情に外の景色を見ている。
お母さんは子供が興奮して飛び出さないよう、電車が停車してドアが開く度に腰に手を廻して優しく支えていた。
両親2人に会話はなく、2人の大人が見つめる中でその少年は時々、見知らぬ人に向かって手を振ったり、ぶつぶつと独り言のように何かを呟いていた。
電車が再び走り出し、対向車とすれ違った瞬間、その男の子は突然奇声をあげ、窓の外の誰かに手を振りだした。車内の視線は一斉にその子に注がれ、静まり返った車内で男の子の奇声だけが響いていた。
次の瞬間、お父さんはその男の子を力強く抱擁し、男の子は安心したのか、やがて静かになった。様子をずっと見ていた私の目に入って来たそのお父さんの顔には、私が今まで見たこともないような安らぎと慈愛に満ちた微笑みが浮かんでいた。

ディズニーランドの最寄駅で降りていったその3人の親子の背中には、楽しそうにミッキーの話をしながらはしゃぎ回る子を連れた、近くにいた家族の何倍もの愛が宿っているような気がして 目頭が熱くなった。

2014年10月23日木曜日

アペルトとコペルト

声楽の技法を説明する際には、対比するイタリア語が使われることが非常に多い。
chiuso(閉じる)⇄aperto(開ける)、aperto(開ける)⇄coperto(覆う)、chiaro(明るい)⇄scuro(暗い)
piccolo(小さい)⇄grande(大きい)、alto(高い)⇄basso(低い)、fuori(外)⇄dentro(内)、avanti(前)⇄dietro(後ろ)........等。

イタリア人の先生はこれらの言葉を巧みに使って、声のポジションを正しい位置に導いてくれる訳だが、この中でapero(開ける)に対比する言葉として使われる、chiuso(閉じる)とcoperto(覆う)の結び付きに頭を悩ませている人(特に男性)は多いのではないだろうか?



自分もイタリアに留学する前は、この点について、漠然とした理解しかしておらず、イタリアでレッスンを受け始めてからも、パッサッジョ域にさし掛かると、無意識に喉を閉めてしまう癖がなかなか取れず、Apri la gola!! (喉を開けろ!!)と怒られてばかりいた。
先生に言われるまま喉を開けると、今度は声を制御しきれず、フォルテのみの、いわゆる「開きっぱなしの声」になってしまい、先生が「それでいい!!」と言ってくれても、素直に納得出来ず、暫くレッスンから離れていた時期があった。



この疑問に良いヒントを与えてくれたのが、あるコンクールで知り合った韓国人のバリトン歌手で、非常に素晴らしい声で演奏をしていたので「Bravo! 素晴らしい演奏でした! 」と話し掛けると、イタリアで師事した有名歌手の話や、韓国人の歌手仲間がどんな先生と勉強しているか等、色々と興味深い話をしてくれた。
テクニックの話の中で「あなたの声は非常に安定しているように感じられましたが、何か特別な秘訣でも?」と質問してみた所、予想通り「歌の神様に全てを・・・( ´ ▽ ` )ノ」と話し出したので、話を遮らない様、丁重に聞き役に徹した後、「ところでパッサッジョ域はどのように出しているのですか?」と、当時最も答えを知りたかった質問を投げかけてみた。
彼は確信した表情で「パッサッジョなんて無い。ただ、下の音から既にcopertoでpassare しているんだ」とあっさりと貴重なテクニックの秘訣を話してくれ、「でも、これを実際に歌で使えるようになるには・・・・・勉強、勉強、勉強」と優しい微笑みを浮かべながら付け加えることを忘れなかった。



愚者ほど、言葉の裏に隠されている真理を見過ごし、表面的な見える事だけに固着するものだが、紛れもなくその一員であった自分も、暫くの間、この方法で練習を続け、声を重くしていった苦い経験がある。chiusoとcopertoをいつの間にか、同一の事と解釈し、喉を閉めながら高い音を出す悪い癖に戻っていたのだ。
結局の所、どんなに正しいテクニックを授かっても、文章の行間を読み取るような鋭い洞察力が無ければ、それを自分の物にする事は出来ないんだということを学んだのは、それから1年程が経ってからだった。

発声において、aperto(喉を開く)という要素は常に機能していなければならない絶対的要素で、そこにcoperto(覆う)というニュアンスが加わるべきだとしても、本当に声を覆ったり、chiuso(喉を閉じる)していては、本意とする所から外れてしまうし、目指すべき声も決して出て来ない。

賢者か愚者かは、学ぼうとする側が相手から何を学べたかによっていつも決まる。
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2014年10月20日月曜日

「ザ・テノール 真実の物語」を観て思ったこと

現在、公開中の映画「ザ・テノール 真実の物語」を観に行った。原題が「ザ・テノール リリコスピント」となっているのを見れば明らかなように、かなりディテールにこだわりが感じられる、本格的なオペラ映画だった。日韓合作との事だが、監督や主要スタッフは、ほとんどが韓国人のようで、日本人による作品とは違った魅力があり、最後までスクリーンから目が離せなかった。

この映画の主人公は、数年前、NHKのドキュメンタリー番組で、声の再生手術を受けるオペラ歌手として取り上げられていた、ベー・チチョルというテノールで、私は留学していた頃、一度だけコンクールで生の声を聴いたことがある。その時歌っていた、アンドレアシェニエの「improvviso」の最初の声が会場に見事に響き渡った瞬間、観客がその声の威力に、静まりかえった光景は今でも鮮明に脳に焼き付いている。
ドイツの歌劇場で大活躍していた彼が、その後、甲状腺癌に侵され、声を失っていく過程は見ていて、とても辛かった。周囲が期待する中、歌う本人だけが喉の異変に気付き、舞台開始の時間が刻々と迫ってくる恐怖感は、同じテノールならきっと共感出来るはずである。

今、ヨーロッパのオペラハウスでは、韓国人歌手を抜きにしたキャスティングは考えられないと言われるほど、彼らの実力は認められている。国際コンクールで上位を占めるのは常に韓国人歌手であり、留学生の数も半端ではない。
日本の聴衆は、同じ東洋人として彼らを甘く見ている為なのか、有名歌劇場の引っ越し公演などで、主役の西洋人歌手が急病などの理由で韓国人歌手に変更になったりすると、「金返せ!」などと声を荒げる人も居るようだが、オペラの本場、ヨーロッパで認められている彼らの声は、西洋人と比べても全く遜色のない音色とテクニックの正確さを兼ね備えており、日本人の数段上を行っている事は明らかだ。時には、本来予定されていた西洋人歌手よりも演技、声の実力ともに上回る事さえある。


映画の中で、彼が日本人のインタビュアーの「どうしてオペラ歌手になろうと思ったのですか?」という質問に、暫く間を置いてから、「オペラ歌手とは、なりたくてなれる職業ではありません。なんと言うか…神様が自分だけに与えてくれた…」と答えた事に、日本人の音楽関係者がドン引きしているシーンが描かれているが、こういった感覚の差に日本が韓国に大きく水を空けられている理由が隠されていると思う。

実際、私がイタリアで出会った韓国人歌手には、ボクシングの選手、軍隊の通信士等、音楽とは畑違いの出身者が結構おり、皆『神から与えられた宝』を磨いて、一旗上げるためにイタリアに勉強に来ていた。合唱がきっかけで音大に入り、オペラを勉強する様になったという、日本では一般的な道を歩んでいる人も確かに多いが、こういった背景が競争力を高めて、声のクオリティーが高い人だけが生き残れるという、本来あるべき土台が作られている。

イタリアでは今でも、コックや警察官出身の歌手がいたりするが、日本でもそういった環境が許容されれば、歌手のクオリティーが上がり、オペラの人気を下押しする事に繋がると思う。「昨日まで蕎麦屋の出前だった人が新国に主役デビューした‼︎」などといったニュースを早く聞きたいものだ。
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2014年10月15日水曜日

ホームページに『当メソードへの質問と回答』を追加しました

私のホームページに『当メソードへの質問と回答』を追加しました。これからも少しづつ増やしていく予定ですので、よろしかったら見て行って下さい。
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2014年10月13日月曜日

声の監視者と心の監視者

イタリアで師事していたジュリアーノ先生の門下生が近くに住んでいると知り、連絡を取って約10年ぶりに再会した。昔話や先生のメソードの話で盛り上がり、共通したメソードの理解者が近くにも居ることに、大きな幸せを感じた。
最近、ある先生から「同じ声への価値観を持っている人に、時々声を聴いてもらうことは絶対に必要な事」とアドヴァイスを頂いていた所だったので、自分にとっては正に渡りに船、嬉しい出会いだった。

自分が常日頃思っていたのと同じように、ジュリアーノ先生のメソードに一度接してしまうと、テクニックや曲の解釈の話だけしかしてくれない日本の先生に、どうしても物足りなさを感じてしまい、新しい先生を見つけられないでいるという。


声の最適な監視者は、常に声楽教師であるとは限らない。
ある歌手にとっては、声楽に関しては素人の妻や亭主が、自分の声の状態を一番理d解出来る、最適な監視者である場合があるし、声楽家の夫婦であっても、お互いの声のことについては、一切口出しをしない決まりを設けたりしている場合もある。声の監視者の役割において、最も重要な事は「出てきた声が良いか、悪いかを判断出来る耳を持っているか」であると思う。出来れば、良い声にする為の方法論を持ち合わせているに越したことはないが、兎に角、良い耳を持っていることは必要不可欠だ。

では、声楽教師に求められる真の資質とは何なのか?
それは、「声の監視者であると同時に、心の監視者でもあること」だと思う。
「外からは見えない、その歌手がどういう心理や、想像を心に抱いて歌っているか」を読み解き、的確にアドヴァイス出来る能力だと思う。
ジュリアーノ先生が声楽の指導者として唯一無二の存在であった理由は正にこの部分にある。生徒の心の内を読み取る、あの鋭い指摘があってこそ、生徒は『本物の歌』に求められる、隠し事の無い、裸の心の状態である事が、如何に難しく、又、如何に価値のある事であるかを学び、それまでの勉強の仕方の過ちに、気付かされたのだ。

今日も先生が言っていた決まり文句「高い!狭い!明るい!小さい!なめらか!外!幸せ!満足!」を胸に、発声練習をすることにしよう。


2014年10月8日水曜日

楽しみながら歌う事と声を楽しむ事の違い

声楽の勉強は文字通り、声を楽しむことだと思う。この漢字を割り振った人が、本当にそういった感覚を理解していたのかは分からないが、少なくとも声学でないということに何かしらの意味があったのだと思う。声を楽しむ感覚が無いと、色々な意味で、声楽の声にはならない。

"楽しみながら歌う" と "声を楽しむ" 違いは一体何なのだろう?

声楽を学びに来た全くの初心者が二人いたとする。二人とも与えられた課題曲を完璧に暗譜出来ており、申し分ない。一人目に歌ってもらうと、声は全くの初心者のものだが、情感が溢れており、、何より本人が楽しみながら歌っているのが、こちらにも伝わってくる。もう一人に歌ってもらうと、こちらは、声が出にくいのか、歌う事が辛そうな感じだ。楽しみながら歌っているようには到底思えない。

一般の人から見ると前者の方が、後者の人より早い上達が見込めると思うかもしれないが、実際はそうでもない。
指導者は "楽しみながら歌える" という、この人が持っている長所を失わせないように、多少の問題には目をつむって、「音楽の流れが途切れないよう、最低限の声の問題だけを注意して、良いところを褒めてあげよう」という心理になりがちだ。生徒本人も、あまり止めて注意されなかったので、自分はかなり歌えていると思い始めてくる。このようなタイプの生徒は 、少し歌っただけで「そこが違う!!」と度々止められてしまうようなレッスンでは、"楽しみながら歌う"  事が出来なくなってしまい、長く続けていこうとする気持ちも萎えてしまい易い傾向がある。

全くの初心者に声楽の指導をする場合、このような、指導者の安易な心遣いや妥協が、長い年月をかけてレッスンを続けても、かえって成果を出しにくくする原因になる事が多い。
何故なら、家に帰ってレッスンの録音を聴いた生徒は、その日に注意された箇所だけが問題だと受け取っており、本来はその箇所に至るまでに、何十回も止めて指摘されるべき小さな声の問題の箇所を素通りして練習してしまうことによって、声の負担を一層大きくしてしまうからである。

声楽を学ぶ人が真の意味で "楽しみながら歌える"  ようになるのは "声を楽しむ" ことが出来るようになってからだと私は思う。"声を楽しむ" 感覚 とは、喉の負担を感じる事無く、一つ一つの音が完全に共鳴した状態において、初めて実感出来るものであり、これは実際にマスターした人のみが味わえる境地でもある。そういった、田植えのような根気のいる作業を辛抱強く続けられた者だけが、最後には舞台で喝采を浴びることになる。

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2014年10月6日月曜日

声種、パート分けで注意すべきこと

『声種、パート分けで注意すべきこと』を私のホームページに追加しました。
よろしかったら見て下さい。  http://belcanto.jpn.com

2014年10月1日水曜日

ベルカントの名手

「ベルカントと他の発声法との違いは何ですか?」と聞かれたら何と答えれば良いだろうか?

「ベルカントとはイタリア語で美しい歌という意味で・・・・・・・・・(≧∇≦)」

誰もが納得できる明確な定義をこの後に付け加えることは非常に難しい。
声楽の勉強を始めて間もない頃は、歌い方の参考にする為、色々な歌手を聴くものだが、私も聴いた歌手の名を片っ端から挙げて、「あの人の歌い方はベルカントですか?」と先生をつかまえてよく質問していたことがある。
「ベルカントオペラを歌っている歌手は全てがベルカント唱法である」と歯切れよく言い切れれば問題はないのだが、一流の歌劇場の公演でもキャストの中に明らかに違う発声法の歌手が含まれるのを見ることがある。
特にドイツ語圏の「ベルカントの名手」や「ベルカントの女王」と言われる名歌手がベルカントオペラを歌うのを聴いて、違和感を覚えることが多い。ラテン系の歌手が歌った時の印象と明らかに何かが違う。勿論、ドイツ語圏の歌手でもラテン系の歌手と殆ど同じように歌える歌手は大勢存在する。
自分はドイツ音楽のエキスパートに師事した経験がないので、はっきりとは言えないが、聴き手の印象として、母音が立体的に聴こえない事がその違和感の正体のような気がする。
仮にベルカントが母音のポジションを基にして響きを作る歌い方だとすれば、明らかに彼らの歌い方は、母音に対する意識より、響きのポジションを優先させている。歌詞が響きに埋れてしまっているような印象を受けるのはその為である。それでも他の歌手が決して到達出来ない高い完成度をもって、ベルカントオペラが歌い演じられることによって聴衆は彼らをベルカントの名手として認めることになる。

公演が注目されるように、主催者が主役歌手のキャッチフレーズとして「ベルカントの何々」といった形容を付け加えることが多いが、歌い手本人が自覚して使われているのかは実に疑わしい。世界的にベルカントの歌手として認められていても、当の本人だけは「自分の発声法はベルカントではないのに、周りが勝手にそう認識している」と静観しているようなケースが実は結構あったりするのではないだろうか・・・・・と勝手に想像してみた。(⌒-⌒; )
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2014年9月30日火曜日

ぼちぼちしてらんねえ

ひと月ほど前に購入し、そのままにしていた「長渕語・録   ぼちぼちしてらんねえ」をじっくりと読んでみた。学生時代に後輩から勧められてレコードを聴いたのがきっかけでファンになり、アルバムを買って、彼の出演したテレビドラマは毎回、欠かさず観たものだ。ライブに行って声援で声を枯らし、翌日の声楽のレッスンで先生に怒られたのも今となっては良い思い出だ。 (≧∇≦)

我々声楽家が「歌う」という表現の為に「喜び」「幸せ」といった、どちらかと言うと「そういう気持ちでないと歌えない」という、正しく歌う為の半原則のような意味合いで感情を持つのに対し、彼は「怒り」「悔しさ」といった感情をストレートに表現する為に、敢えて自分の声を潰したり、肉体を鍛え上げて、偽りのない内面から自然に出てくる感情にこだわり抜いている。人が作った歌を、より芸術性を高めて観客に提供しようとする職業と、自分の内にある感情を音と歌詞に焼き付け、観客にそのメッセージを伝えようとする職業という根本的な違いはあるにしても、歌手という表現者は、常にそういった自分の偽りのない魂の声に耳を凝らしておく必要があると思う。
魂の声は、どん底まで落ちた経験があるから真の幸せの感覚が理解出来たり、みっともない悔しい体験をしたことがあるから、同じような状況の人を心から応援して励ましてあげたくなるように、決して人がそうなりたいとは望まない体験を通して育まれるような気がする。


つまずいた時、泣きたい時に手に取って読んでみると、その飾り気の無い言葉がストレートに体に入り、生きようとする力が湧いてくる。
上品なオペラに食傷気味の時にオススメの一冊である。
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2014年9月23日火曜日

ホームページに『声が破滅に至る仕組み』を追加しました

私のホームページに『声が破滅に至る仕組み』を追加しました。

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東京お笑い歌劇場「ドン・パスクワーレ」ハイライト公演のお知らせ

来月10月4日(土)19時より 巣鴨 スタジオ・フォーにて行われます。
私はエルネスト役で出演致します。定員制(50人くらい?)とのことですので、チケットご希望の方はメール頂ければ確保させて頂きます。 osyarebag@gmail.com

公演の詳細は http://fresiagroup.web.fc2.com  で確認願います。

2014年9月10日水曜日

マリオ・ランツァの声について考える

コンサートで歌うBecauseという曲の参考にする為、「歌劇王カルーソー」という古い伝記映画のビデオを観た。Becauseは映画の中で、カルーソーの娘が誕生したシーンで、我が子に対する父親の想いとして歌われている名曲だ。
この映画の中でカルーソー役を歌い、演じているのが、かつて一世を風靡したアメリカ人テノールのマリオ・ランツァで、彼は38年という短い生涯の中で多くの音楽映画に出演し、今だに世界中に多くのファンを持つ伝説的歌手である。彼の歌い回しやレパートリーの選び方については声楽の専門家からは異論が多いと聞くが、他のオペラ歌手が持ち合わせない、独特の開放感のある歌唱の魅力は今日でも捨てがたいものがある。

一昔前、某声楽コンクールの本選会場で配布されたパンフレットにマリオ・ランツァについての審査委員長の記述があった。レコードでは非常に声量のある声に聞こえる彼の声は、マイクを使わないオペラの舞台では蚊の鳴くような声にしか聴こえなかったという。
自分が留学していた頃、イタリアのヴェローナ音楽祭のメリーウィドーに出演したテノールのアンドレア・ボチェッリを聴いた時も、他のオペラ歌手と比較して蚊の鳴くような声にしか聴こえず、マイクを日常的に使う歌手の発声の盲点に気付かされたことを思い出した。

現代の優れた録音機器で収録された音源から、こういった生の舞台での声の飛び方の特性を想像するのは非常に難しく、実際に生の声を聴くと、想像していた声の飛び方と全く違う事に驚かされる事も多い。これはスタジオで収録する際、モニター音としてマイクで拾われた自分の声を聴きながら歌ってみると原因を明らかにすることが出来る。
声楽家は骨伝導を通して自分に聴こえる声と、外で他の人に聴こえる声が全く違うことを理解し、正しい共鳴の感覚を頼りに歌わなくてはならないが、モニターから出てくる身体の外で鳴っている自分の声を聴いてしまうことにより、骨伝導を通した聴こえ方が封印され、自分に聴こえる声と外で聴こえる声が全く同じになってしまい、正しい共鳴のバランスを崩してしまう。マイクを使わない舞台で歌った時にその影響は初めて明るみに出ることになる。

生の声がどうであれ、マリオ・ランツァは多くの優れた録音を残し、その声は録音媒体によって永遠に人々を魅了し続けるであろう。
自分のコンサートを聴いたお客様が、せめて、その日の夕飯のメニューを考えるまでは声の余韻に浸って貰えるような、自分はそんな存在でありたいと思っている。(⌒-⌒; )

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2014年9月6日土曜日

新曲を暗譜する際に注意したい事

12日のコンサートまで残すところ一週間となり、曲の仕上げに追われている。今回は得意のイタリア語に加えて、スペイン語、フランス語、ドイツ語、日本語、英語が加わるので暗譜に要する時間も長大だ。
自分にとって、ラテン語の部類に属する、イタリア語、スペイン語、フランス語は比較的暗譜するのも早く、感情移入もし易い。また、義務教育で時間をかけて学んだ英語も、発音にこそ気を使うものの、比較的早く暗譜できるのだが、ドイツ語、日本語に関しては毎回暗譜に苦戦している。
子音の処理など、発音に気を使う英語、ドイツ語に苦戦するのは、自分でも納得がいくのだが、(恐らく?)生粋の日本人である自分が日本語の暗譜に苦戦するのはなぜなのだろうか?
家の中である用事を思い出し、それを行おうと別の部屋に移動した瞬間「はて?  何をしに来たんだっけ?」という軽い記憶喪失に陥ることが近頃良くあるのだが、「痴呆の影が忍び寄っているのでは?」という不安が脳裏をかすめる……………( ̄◇ ̄;)。

自宅でのレッスンで生徒さんに次のレッスンまでに新曲を暗譜してくるようにお願いすると、ほとんどの人は完璧に暗譜をしてきてくれる。このこと自体は本来、褒めてしかるべきことなのだが、レッスンで発声のポジションを矯正していくと、面白いことに、ほとんどの人が歌詞を思い出せなくなってしまう。
これは彼らが、歌詞を言語としての不自然さがない事を最優先にしたポジションで、練習をしてきたので、レッスンで母音の響きを多くするポジションに移行されたことによって記憶の通り道が変わってしまい、起きる症状のように思う。

自分が日本語での暗譜に思いの外、時間がかかるのも、日本語を言語として認識できるポジションではなく、ベルカントの正しい母音のポジションで歌うことを優先しているために日本語ネイティブという特権が、全く暗譜には生かされないからあり、「痴呆の始まりでは決してない!!」と頑なに自分に言い聞かせている。
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2014年8月28日木曜日

アリアの重い軽いについて考える

コンサートのプログラムに加えるか検討するため『道化師』の ”衣装をつけろ” を練習している。
この曲は20代の頃に何度か歌ったことがあったが、発声について表面的な理解しかしていなかった当時は、狭い練習室の中で喉を締め付けながら、繰り返し練習したものである。今振り返ると、若さゆえの無謀さにあきれ果てるばかりだが、この曲を繰り返し練習しすぎることは、パッサッジョ音域で喉が固まり易く、発声がかなり完成された現在でも、声の調子を崩す危険性と常に隣り合わせであると言える。

一般的に音楽学校や音楽大学で重めの曲を試験曲に選ぶと、先生方には、かなり白い目で見られ、軽めの曲を持ってくるように指導される事が多い。若いころの自分も例外ではなく、ヴェルディ後期の重めのアリアを選ぼうとすると、「もう少し年月が経って声が熟してからにしなさい!」とよく忠告を受けたものである。
声が完成されていない若い時期に重めのアリアを練習する事は確かに好ましいことではない。ただ、そのアリア一曲が重めのものであるのか、オペラ全体が重めのものなのかを指揮やピアニスト出身の先生が混同しているのを時々感じることがある。テノールのアリアでいえば、ジョコンダの「空と海」やアフリカの女の「おおパラダイス」、エルナー二の「ありがとう愛する友たちよ」等は日本ではほとんど歌われる事はないが、パッサッジョの練習には非常に適した曲であり、オペラのイメージから連想されるような声の重さや負担は、正しいパッサッジョの克服によって、ほとんど問題なく回避することができる。
声楽の先生でも、そのオペラが重めのものであるという理由から、実際にそのアリアを自分で歌うことを最初から敬遠し、先入観で「重いアリアだから生徒には危険!」と決めつけているケースもあると思う。
こういった例外的な曲こそ、声楽を学んでいる人にもっと取り上げて欲しい曲であり、テノールで ”衣装をつけろ” を歌うのであれば、その前に必ずマスターする必要のある曲だと思っている。
声質が軽めのテノールが ”衣装をつけろ” を歌うことは通常はあり得ないことだが、日本ではそういった常識は無視されており、あちこちの舞台上で声が崩壊寸前の道化師が「喜劇は終わった!!」と泣き崩れている。

これとは逆に、高音を含まない一つの声区だけで成り立っている曲を繰り返し練習する事も大変に危険なことであり、日本では初心者に適していると考えられているのか、五線の上の音が出てくる曲をかなり後になってから取り組ませる傾向があるように思う。
このパッサッジョを含んだ曲を初心者の声楽レッスンで後回しにする傾向は、日本人のパッサッジョの克服を難しくしている大きな要因の一つになっていると私は思う。
パッサッジョは声の重心の感覚が重要であり、初心者がパッサッジョが存在しない高音のない曲ばかりを歌っていると声の重心の感覚は下がり、それがすりこみによって定着してしまう。
これは大変に危険なことであり、五線の上と下を適度な割合で上下していないと声の柔軟さは次第に失われていき、レパートリーを拡張していくこともできなくなってくる。初心者が古典歌曲から始める際も、こういったことを考慮して慎重に調性を選ぶ必要がある。長期的に見れば、こういった配慮が声の負担を減らし、高齢になっても若々しい声を保つ一つの要因になるのだと思う。


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2014年8月7日木曜日

先日のコンサートから数曲をyoutubeにアップしました

先月7月30日に行った ”アフタヌーン宗像成弥テノールコンサー”ト の模様です。途中でビデオがずれてしまい、顔が半分だけになっているシーンもありますが、どうかお許し下さい。<(_ _)>

http://www.youtube.com/playlist?list=PL7V40o8kPGhbOAo-8WC90Y9DSh7hzDyft

2014年8月2日土曜日

第2回アフタヌーン宗像成弥テノールコンサートのお知らせ

第二回アフタヌーン宗像成弥テノールコンサートのお知らせ
好評だった第一回に続き、9月12日(金) 午後2時より  多摩市のパルテノン多摩(小ホール)にて『アフタヌーン宗像成弥テノールコンサート ~世界の歌を歌う~』に出演します。チケットご希望の方はアープロコンサート事業部 042-338-6260 (受付:平日9:00〜17:00)、イープラス http://eplus.jp かチケットパルテノン 042-376-8181までお願いします。
ピアノ伴奏は河崎恵さんでグラナダ、ウィーンわが夢の街、落葉松、BECAUSE、トゥーランドットから”誰も寝てはならぬ” などの曲を予定しています。


アフタヌーン 宗像成弥テノールコンサート
〜世界の歌を歌う〜

2014年9月12日(金)  14時開演
パルテノン多摩小ホール
一般2500円    学生1000円(受付にて学生証を提示)

他人を信じることの難しさ

八王子市いちょうホールでのコンサートを無事に歌い終えることが出来た。当日会場で聴いて頂いたお客様のほとんどは、私が長い期間に渡って不調続きであった事はご存知無いので、コンサートを純粋に楽しんで頂けたと思う。一方、これまでの数々の失声演奏につき合わせてしまったにも関わらず、今回も来場頂いた方々はどういった気持ちで聴いて下さったのだろうか? 終演後にはお会いすることが出来なかったが、ある一人の男性が書いてくれたアンケート用紙を見て胸が熱くなった。

恐らくその男性は、私が10年前にイタリアから帰国してから出演した殆んどの公演に足を運んでくれたと思う。勿論、きっかけは良い演奏をしたことでファンになって頂いた訳だが、その後、声の調子を崩して途中降板や、失声演奏を繰り返しても辛抱強く演奏会場に駆けつけてくれ、影ながら励まし続けてくれた。

以前は良い演奏をしていたが、声の調子を崩して、何年にも渡って上手く歌えた試しが無い壊れかけの歌手がいたとしたら、その復活を信じてチケットを買い続ける事が出来るか自問自答してみた。
声の美しさ、テクニックの完成度、姿、形の美しさ・・・・・・自分にとってこれらの要素を追い求めてチケットを買い続ける事は到底出来ない。では何を持ち合わせていれば次回の演奏会への期待感を維持できるのか?

的を得た言い方では無いかもしれないが、例えば、人間が何らかの殻を破ろうとする時に偶然に発せられるエネルギーがあるとすれば、「そのエネルギーを共有出来る場に身を置きたい」そう願うから人は他人を信じようとすることが出来、そのエネルギーの予感が感じられなくなった時に他人を信じられなくなるのでは……。ふとそんな考えが頭をよぎった。


2014年7月23日水曜日

EXILE 500日密着ドキュメントを見て思った事

先日、テレビをつけると「EXILE 夢を追い続ける者たちの真実 500日密着ドキュメント 」という番組が流れていた。お恥ずかしながら、EXILEの曲はライジングサンぐらいしか聞いたことがない私。番組はリーダーのHIROさんがグループを退くに当たって、メンバー全員のこれからのビジョンの確認やEXILEが今後もトップパフォーマーとして輝き続けるための意識の共有など、ミーティングシーンを中心に、彼らの舞台裏での表情や本番に備えてのアスリートトレーニングのシーンが映し出されていた。トップに君臨し続ける為に彼らが日常行っているトレーニングはフルマラソンを凌駕するほどのエネルギー量だそうだ。それだけの体力を備えていないとあのハードなパフォーマンスを最後まで演じ切ることは出来ないらしい。
3年ほど前に20キロのハーフマラソンに参加し、フラフラになって完走した経験があるが、フルマラソンに必要なエネルギーたるや私の想像を遥かに超えたものであることは間違えない。幅広い層のファンを熱狂させる彼らの圧倒的な舞台は、毎回違った趣向で作られ、観客に新鮮な驚きを与え、決して飽きさせる事が無い。しかし、見落としてはならないのは、その舞台を圧倒的にしている一番の要素が、舞台セットや演出ではなく、空間に充満している生身の人間から発せられた莫大な量のエネルギーであることだ。パフォーマーであるEXILEから発せられたエネルギーに観客が反応し、発したエネルギーの総量がもたらした結果なのだ。彼らの不断のトレーニングの効果は、結果的に観客のボルテージを上げ、舞台空間をエネルギーで充満させる事に繋がっている。
自分も舞台人として出来るだけ多くの人にエネルギーを与えられるよう、水泳やジョギングで体力増強に努めているが、まだまだ甘いなあと痛感させられた。



2014年7月16日水曜日

自分を信じる事の難しさ

八王子でのソロコンサート本番まで残すところ2週間となった。毎度の事だが、本番が近づくと一時的に発声の調子を崩す事がある。対処の仕方は全て、今までの苦い経験によって、理解しているので、問題無く元の状態に戻すことが出来たが、1年前の自分なら対応策が浮かばず、この時点でパニックになっていたかもしれない。

少しでも本番までに完成度を上げたいと思うのは、演奏家が持つべき当然の意識だと思うが、自分の場合、この意識が皮肉にも裏目に出ることが多かった。
声楽家にとって本番前の調整は実に難しく、ピアニストのように本番に備えて丸一日鍵盤に向かい合って、完成度を高めて行くような練習法を取り入れても、かえって声の調子を崩してしまい、本番で実を結ぶことは極めて少ない。

発声に少しでも違和感を感じた時は、直ちに声を出すのをやめて、トレーニングウェアに着替え、景観の良い近所の遊歩道をジョギングし、程よく汗をかいたところで、冷水を張った浴槽に飛び込み、よく冷えたビールで喉を潤す事にしている。ビールのCMではないが、『至福』と実感できる瞬間であり、リラックスした精神状態で練習の録音を聴いてみると、上手く声が出せなかった原因がはっきりと見えてくる。
『自分を信じて歌う』という理想の状態は自分の場合、流した汗の先に常に存在している。

2014年7月9日水曜日

アフタヌーン宗像成弥テノールコンサートのお知らせ

7月30日(水) 午後2時より  八王子市芸術文化会館いちょうホール(小ホール)にて『アフタヌーン宗像成弥テノールコンサート』に出演します。チケットご希望の方はアープロコンサート事業部 042-338-6260 (受付:平日9:00〜17:00) かイープラス  http://eplus.jpまでお願いします。ヴェルディ、プッチーニのアリアとカンツォーネを歌います。

2014年7月2日水曜日

ブログ開設しました。

ブログ開設のお知らせ。声に関して思うこと。演奏予定などをアップしていきます。