2014年10月23日木曜日

アペルトとコペルト

声楽の技法を説明する際には、対比するイタリア語が使われることが非常に多い。
chiuso(閉じる)⇄aperto(開ける)、aperto(開ける)⇄coperto(覆う)、chiaro(明るい)⇄scuro(暗い)
piccolo(小さい)⇄grande(大きい)、alto(高い)⇄basso(低い)、fuori(外)⇄dentro(内)、avanti(前)⇄dietro(後ろ)........等。

イタリア人の先生はこれらの言葉を巧みに使って、声のポジションを正しい位置に導いてくれる訳だが、この中でapero(開ける)に対比する言葉として使われる、chiuso(閉じる)とcoperto(覆う)の結び付きに頭を悩ませている人(特に男性)は多いのではないだろうか?



自分もイタリアに留学する前は、この点について、漠然とした理解しかしておらず、イタリアでレッスンを受け始めてからも、パッサッジョ域にさし掛かると、無意識に喉を閉めてしまう癖がなかなか取れず、Apri la gola!! (喉を開けろ!!)と怒られてばかりいた。
先生に言われるまま喉を開けると、今度は声を制御しきれず、フォルテのみの、いわゆる「開きっぱなしの声」になってしまい、先生が「それでいい!!」と言ってくれても、素直に納得出来ず、暫くレッスンから離れていた時期があった。



この疑問に良いヒントを与えてくれたのが、あるコンクールで知り合った韓国人のバリトン歌手で、非常に素晴らしい声で演奏をしていたので「Bravo! 素晴らしい演奏でした! 」と話し掛けると、イタリアで師事した有名歌手の話や、韓国人の歌手仲間がどんな先生と勉強しているか等、色々と興味深い話をしてくれた。
テクニックの話の中で「あなたの声は非常に安定しているように感じられましたが、何か特別な秘訣でも?」と質問してみた所、予想通り「歌の神様に全てを・・・( ´ ▽ ` )ノ」と話し出したので、話を遮らない様、丁重に聞き役に徹した後、「ところでパッサッジョ域はどのように出しているのですか?」と、当時最も答えを知りたかった質問を投げかけてみた。
彼は確信した表情で「パッサッジョなんて無い。ただ、下の音から既にcopertoでpassare しているんだ」とあっさりと貴重なテクニックの秘訣を話してくれ、「でも、これを実際に歌で使えるようになるには・・・・・勉強、勉強、勉強」と優しい微笑みを浮かべながら付け加えることを忘れなかった。



愚者ほど、言葉の裏に隠されている真理を見過ごし、表面的な見える事だけに固着するものだが、紛れもなくその一員であった自分も、暫くの間、この方法で練習を続け、声を重くしていった苦い経験がある。chiusoとcopertoをいつの間にか、同一の事と解釈し、喉を閉めながら高い音を出す悪い癖に戻っていたのだ。
結局の所、どんなに正しいテクニックを授かっても、文章の行間を読み取るような鋭い洞察力が無ければ、それを自分の物にする事は出来ないんだということを学んだのは、それから1年程が経ってからだった。

発声において、aperto(喉を開く)という要素は常に機能していなければならない絶対的要素で、そこにcoperto(覆う)というニュアンスが加わるべきだとしても、本当に声を覆ったり、chiuso(喉を閉じる)していては、本意とする所から外れてしまうし、目指すべき声も決して出て来ない。

賢者か愚者かは、学ぼうとする側が相手から何を学べたかによっていつも決まる。
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2014年10月20日月曜日

「ザ・テノール 真実の物語」を観て思ったこと

現在、公開中の映画「ザ・テノール 真実の物語」を観に行った。原題が「ザ・テノール リリコスピント」となっているのを見れば明らかなように、かなりディテールにこだわりが感じられる、本格的なオペラ映画だった。日韓合作との事だが、監督や主要スタッフは、ほとんどが韓国人のようで、日本人による作品とは違った魅力があり、最後までスクリーンから目が離せなかった。

この映画の主人公は、数年前、NHKのドキュメンタリー番組で、声の再生手術を受けるオペラ歌手として取り上げられていた、ベー・チチョルというテノールで、私は留学していた頃、一度だけコンクールで生の声を聴いたことがある。その時歌っていた、アンドレアシェニエの「improvviso」の最初の声が会場に見事に響き渡った瞬間、観客がその声の威力に、静まりかえった光景は今でも鮮明に脳に焼き付いている。
ドイツの歌劇場で大活躍していた彼が、その後、甲状腺癌に侵され、声を失っていく過程は見ていて、とても辛かった。周囲が期待する中、歌う本人だけが喉の異変に気付き、舞台開始の時間が刻々と迫ってくる恐怖感は、同じテノールならきっと共感出来るはずである。

今、ヨーロッパのオペラハウスでは、韓国人歌手を抜きにしたキャスティングは考えられないと言われるほど、彼らの実力は認められている。国際コンクールで上位を占めるのは常に韓国人歌手であり、留学生の数も半端ではない。
日本の聴衆は、同じ東洋人として彼らを甘く見ている為なのか、有名歌劇場の引っ越し公演などで、主役の西洋人歌手が急病などの理由で韓国人歌手に変更になったりすると、「金返せ!」などと声を荒げる人も居るようだが、オペラの本場、ヨーロッパで認められている彼らの声は、西洋人と比べても全く遜色のない音色とテクニックの正確さを兼ね備えており、日本人の数段上を行っている事は明らかだ。時には、本来予定されていた西洋人歌手よりも演技、声の実力ともに上回る事さえある。


映画の中で、彼が日本人のインタビュアーの「どうしてオペラ歌手になろうと思ったのですか?」という質問に、暫く間を置いてから、「オペラ歌手とは、なりたくてなれる職業ではありません。なんと言うか…神様が自分だけに与えてくれた…」と答えた事に、日本人の音楽関係者がドン引きしているシーンが描かれているが、こういった感覚の差に日本が韓国に大きく水を空けられている理由が隠されていると思う。

実際、私がイタリアで出会った韓国人歌手には、ボクシングの選手、軍隊の通信士等、音楽とは畑違いの出身者が結構おり、皆『神から与えられた宝』を磨いて、一旗上げるためにイタリアに勉強に来ていた。合唱がきっかけで音大に入り、オペラを勉強する様になったという、日本では一般的な道を歩んでいる人も確かに多いが、こういった背景が競争力を高めて、声のクオリティーが高い人だけが生き残れるという、本来あるべき土台が作られている。

イタリアでは今でも、コックや警察官出身の歌手がいたりするが、日本でもそういった環境が許容されれば、歌手のクオリティーが上がり、オペラの人気を下押しする事に繋がると思う。「昨日まで蕎麦屋の出前だった人が新国に主役デビューした‼︎」などといったニュースを早く聞きたいものだ。
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2014年10月15日水曜日

ホームページに『当メソードへの質問と回答』を追加しました

私のホームページに『当メソードへの質問と回答』を追加しました。これからも少しづつ増やしていく予定ですので、よろしかったら見て行って下さい。
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2014年10月13日月曜日

声の監視者と心の監視者

イタリアで師事していたジュリアーノ先生の門下生が近くに住んでいると知り、連絡を取って約10年ぶりに再会した。昔話や先生のメソードの話で盛り上がり、共通したメソードの理解者が近くにも居ることに、大きな幸せを感じた。
最近、ある先生から「同じ声への価値観を持っている人に、時々声を聴いてもらうことは絶対に必要な事」とアドヴァイスを頂いていた所だったので、自分にとっては正に渡りに船、嬉しい出会いだった。

自分が常日頃思っていたのと同じように、ジュリアーノ先生のメソードに一度接してしまうと、テクニックや曲の解釈の話だけしかしてくれない日本の先生に、どうしても物足りなさを感じてしまい、新しい先生を見つけられないでいるという。


声の最適な監視者は、常に声楽教師であるとは限らない。
ある歌手にとっては、声楽に関しては素人の妻や亭主が、自分の声の状態を一番理d解出来る、最適な監視者である場合があるし、声楽家の夫婦であっても、お互いの声のことについては、一切口出しをしない決まりを設けたりしている場合もある。声の監視者の役割において、最も重要な事は「出てきた声が良いか、悪いかを判断出来る耳を持っているか」であると思う。出来れば、良い声にする為の方法論を持ち合わせているに越したことはないが、兎に角、良い耳を持っていることは必要不可欠だ。

では、声楽教師に求められる真の資質とは何なのか?
それは、「声の監視者であると同時に、心の監視者でもあること」だと思う。
「外からは見えない、その歌手がどういう心理や、想像を心に抱いて歌っているか」を読み解き、的確にアドヴァイス出来る能力だと思う。
ジュリアーノ先生が声楽の指導者として唯一無二の存在であった理由は正にこの部分にある。生徒の心の内を読み取る、あの鋭い指摘があってこそ、生徒は『本物の歌』に求められる、隠し事の無い、裸の心の状態である事が、如何に難しく、又、如何に価値のある事であるかを学び、それまでの勉強の仕方の過ちに、気付かされたのだ。

今日も先生が言っていた決まり文句「高い!狭い!明るい!小さい!なめらか!外!幸せ!満足!」を胸に、発声練習をすることにしよう。


2014年10月8日水曜日

楽しみながら歌う事と声を楽しむ事の違い

声楽の勉強は文字通り、声を楽しむことだと思う。この漢字を割り振った人が、本当にそういった感覚を理解していたのかは分からないが、少なくとも声学でないということに何かしらの意味があったのだと思う。声を楽しむ感覚が無いと、色々な意味で、声楽の声にはならない。

"楽しみながら歌う" と "声を楽しむ" 違いは一体何なのだろう?

声楽を学びに来た全くの初心者が二人いたとする。二人とも与えられた課題曲を完璧に暗譜出来ており、申し分ない。一人目に歌ってもらうと、声は全くの初心者のものだが、情感が溢れており、、何より本人が楽しみながら歌っているのが、こちらにも伝わってくる。もう一人に歌ってもらうと、こちらは、声が出にくいのか、歌う事が辛そうな感じだ。楽しみながら歌っているようには到底思えない。

一般の人から見ると前者の方が、後者の人より早い上達が見込めると思うかもしれないが、実際はそうでもない。
指導者は "楽しみながら歌える" という、この人が持っている長所を失わせないように、多少の問題には目をつむって、「音楽の流れが途切れないよう、最低限の声の問題だけを注意して、良いところを褒めてあげよう」という心理になりがちだ。生徒本人も、あまり止めて注意されなかったので、自分はかなり歌えていると思い始めてくる。このようなタイプの生徒は 、少し歌っただけで「そこが違う!!」と度々止められてしまうようなレッスンでは、"楽しみながら歌う"  事が出来なくなってしまい、長く続けていこうとする気持ちも萎えてしまい易い傾向がある。

全くの初心者に声楽の指導をする場合、このような、指導者の安易な心遣いや妥協が、長い年月をかけてレッスンを続けても、かえって成果を出しにくくする原因になる事が多い。
何故なら、家に帰ってレッスンの録音を聴いた生徒は、その日に注意された箇所だけが問題だと受け取っており、本来はその箇所に至るまでに、何十回も止めて指摘されるべき小さな声の問題の箇所を素通りして練習してしまうことによって、声の負担を一層大きくしてしまうからである。

声楽を学ぶ人が真の意味で "楽しみながら歌える"  ようになるのは "声を楽しむ" ことが出来るようになってからだと私は思う。"声を楽しむ" 感覚 とは、喉の負担を感じる事無く、一つ一つの音が完全に共鳴した状態において、初めて実感出来るものであり、これは実際にマスターした人のみが味わえる境地でもある。そういった、田植えのような根気のいる作業を辛抱強く続けられた者だけが、最後には舞台で喝采を浴びることになる。

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2014年10月6日月曜日

声種、パート分けで注意すべきこと

『声種、パート分けで注意すべきこと』を私のホームページに追加しました。
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2014年10月1日水曜日

ベルカントの名手

「ベルカントと他の発声法との違いは何ですか?」と聞かれたら何と答えれば良いだろうか?

「ベルカントとはイタリア語で美しい歌という意味で・・・・・・・・・(≧∇≦)」

誰もが納得できる明確な定義をこの後に付け加えることは非常に難しい。
声楽の勉強を始めて間もない頃は、歌い方の参考にする為、色々な歌手を聴くものだが、私も聴いた歌手の名を片っ端から挙げて、「あの人の歌い方はベルカントですか?」と先生をつかまえてよく質問していたことがある。
「ベルカントオペラを歌っている歌手は全てがベルカント唱法である」と歯切れよく言い切れれば問題はないのだが、一流の歌劇場の公演でもキャストの中に明らかに違う発声法の歌手が含まれるのを見ることがある。
特にドイツ語圏の「ベルカントの名手」や「ベルカントの女王」と言われる名歌手がベルカントオペラを歌うのを聴いて、違和感を覚えることが多い。ラテン系の歌手が歌った時の印象と明らかに何かが違う。勿論、ドイツ語圏の歌手でもラテン系の歌手と殆ど同じように歌える歌手は大勢存在する。
自分はドイツ音楽のエキスパートに師事した経験がないので、はっきりとは言えないが、聴き手の印象として、母音が立体的に聴こえない事がその違和感の正体のような気がする。
仮にベルカントが母音のポジションを基にして響きを作る歌い方だとすれば、明らかに彼らの歌い方は、母音に対する意識より、響きのポジションを優先させている。歌詞が響きに埋れてしまっているような印象を受けるのはその為である。それでも他の歌手が決して到達出来ない高い完成度をもって、ベルカントオペラが歌い演じられることによって聴衆は彼らをベルカントの名手として認めることになる。

公演が注目されるように、主催者が主役歌手のキャッチフレーズとして「ベルカントの何々」といった形容を付け加えることが多いが、歌い手本人が自覚して使われているのかは実に疑わしい。世界的にベルカントの歌手として認められていても、当の本人だけは「自分の発声法はベルカントではないのに、周りが勝手にそう認識している」と静観しているようなケースが実は結構あったりするのではないだろうか・・・・・と勝手に想像してみた。(⌒-⌒; )
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