2014年9月30日火曜日

ぼちぼちしてらんねえ

ひと月ほど前に購入し、そのままにしていた「長渕語・録   ぼちぼちしてらんねえ」をじっくりと読んでみた。学生時代に後輩から勧められてレコードを聴いたのがきっかけでファンになり、アルバムを買って、彼の出演したテレビドラマは毎回、欠かさず観たものだ。ライブに行って声援で声を枯らし、翌日の声楽のレッスンで先生に怒られたのも今となっては良い思い出だ。 (≧∇≦)

我々声楽家が「歌う」という表現の為に「喜び」「幸せ」といった、どちらかと言うと「そういう気持ちでないと歌えない」という、正しく歌う為の半原則のような意味合いで感情を持つのに対し、彼は「怒り」「悔しさ」といった感情をストレートに表現する為に、敢えて自分の声を潰したり、肉体を鍛え上げて、偽りのない内面から自然に出てくる感情にこだわり抜いている。人が作った歌を、より芸術性を高めて観客に提供しようとする職業と、自分の内にある感情を音と歌詞に焼き付け、観客にそのメッセージを伝えようとする職業という根本的な違いはあるにしても、歌手という表現者は、常にそういった自分の偽りのない魂の声に耳を凝らしておく必要があると思う。
魂の声は、どん底まで落ちた経験があるから真の幸せの感覚が理解出来たり、みっともない悔しい体験をしたことがあるから、同じような状況の人を心から応援して励ましてあげたくなるように、決して人がそうなりたいとは望まない体験を通して育まれるような気がする。


つまずいた時、泣きたい時に手に取って読んでみると、その飾り気の無い言葉がストレートに体に入り、生きようとする力が湧いてくる。
上品なオペラに食傷気味の時にオススメの一冊である。
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2014年9月23日火曜日

ホームページに『声が破滅に至る仕組み』を追加しました

私のホームページに『声が破滅に至る仕組み』を追加しました。

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東京お笑い歌劇場「ドン・パスクワーレ」ハイライト公演のお知らせ

来月10月4日(土)19時より 巣鴨 スタジオ・フォーにて行われます。
私はエルネスト役で出演致します。定員制(50人くらい?)とのことですので、チケットご希望の方はメール頂ければ確保させて頂きます。 osyarebag@gmail.com

公演の詳細は http://fresiagroup.web.fc2.com  で確認願います。

2014年9月10日水曜日

マリオ・ランツァの声について考える

コンサートで歌うBecauseという曲の参考にする為、「歌劇王カルーソー」という古い伝記映画のビデオを観た。Becauseは映画の中で、カルーソーの娘が誕生したシーンで、我が子に対する父親の想いとして歌われている名曲だ。
この映画の中でカルーソー役を歌い、演じているのが、かつて一世を風靡したアメリカ人テノールのマリオ・ランツァで、彼は38年という短い生涯の中で多くの音楽映画に出演し、今だに世界中に多くのファンを持つ伝説的歌手である。彼の歌い回しやレパートリーの選び方については声楽の専門家からは異論が多いと聞くが、他のオペラ歌手が持ち合わせない、独特の開放感のある歌唱の魅力は今日でも捨てがたいものがある。

一昔前、某声楽コンクールの本選会場で配布されたパンフレットにマリオ・ランツァについての審査委員長の記述があった。レコードでは非常に声量のある声に聞こえる彼の声は、マイクを使わないオペラの舞台では蚊の鳴くような声にしか聴こえなかったという。
自分が留学していた頃、イタリアのヴェローナ音楽祭のメリーウィドーに出演したテノールのアンドレア・ボチェッリを聴いた時も、他のオペラ歌手と比較して蚊の鳴くような声にしか聴こえず、マイクを日常的に使う歌手の発声の盲点に気付かされたことを思い出した。

現代の優れた録音機器で収録された音源から、こういった生の舞台での声の飛び方の特性を想像するのは非常に難しく、実際に生の声を聴くと、想像していた声の飛び方と全く違う事に驚かされる事も多い。これはスタジオで収録する際、モニター音としてマイクで拾われた自分の声を聴きながら歌ってみると原因を明らかにすることが出来る。
声楽家は骨伝導を通して自分に聴こえる声と、外で他の人に聴こえる声が全く違うことを理解し、正しい共鳴の感覚を頼りに歌わなくてはならないが、モニターから出てくる身体の外で鳴っている自分の声を聴いてしまうことにより、骨伝導を通した聴こえ方が封印され、自分に聴こえる声と外で聴こえる声が全く同じになってしまい、正しい共鳴のバランスを崩してしまう。マイクを使わない舞台で歌った時にその影響は初めて明るみに出ることになる。

生の声がどうであれ、マリオ・ランツァは多くの優れた録音を残し、その声は録音媒体によって永遠に人々を魅了し続けるであろう。
自分のコンサートを聴いたお客様が、せめて、その日の夕飯のメニューを考えるまでは声の余韻に浸って貰えるような、自分はそんな存在でありたいと思っている。(⌒-⌒; )

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2014年9月6日土曜日

新曲を暗譜する際に注意したい事

12日のコンサートまで残すところ一週間となり、曲の仕上げに追われている。今回は得意のイタリア語に加えて、スペイン語、フランス語、ドイツ語、日本語、英語が加わるので暗譜に要する時間も長大だ。
自分にとって、ラテン語の部類に属する、イタリア語、スペイン語、フランス語は比較的暗譜するのも早く、感情移入もし易い。また、義務教育で時間をかけて学んだ英語も、発音にこそ気を使うものの、比較的早く暗譜できるのだが、ドイツ語、日本語に関しては毎回暗譜に苦戦している。
子音の処理など、発音に気を使う英語、ドイツ語に苦戦するのは、自分でも納得がいくのだが、(恐らく?)生粋の日本人である自分が日本語の暗譜に苦戦するのはなぜなのだろうか?
家の中である用事を思い出し、それを行おうと別の部屋に移動した瞬間「はて?  何をしに来たんだっけ?」という軽い記憶喪失に陥ることが近頃良くあるのだが、「痴呆の影が忍び寄っているのでは?」という不安が脳裏をかすめる……………( ̄◇ ̄;)。

自宅でのレッスンで生徒さんに次のレッスンまでに新曲を暗譜してくるようにお願いすると、ほとんどの人は完璧に暗譜をしてきてくれる。このこと自体は本来、褒めてしかるべきことなのだが、レッスンで発声のポジションを矯正していくと、面白いことに、ほとんどの人が歌詞を思い出せなくなってしまう。
これは彼らが、歌詞を言語としての不自然さがない事を最優先にしたポジションで、練習をしてきたので、レッスンで母音の響きを多くするポジションに移行されたことによって記憶の通り道が変わってしまい、起きる症状のように思う。

自分が日本語での暗譜に思いの外、時間がかかるのも、日本語を言語として認識できるポジションではなく、ベルカントの正しい母音のポジションで歌うことを優先しているために日本語ネイティブという特権が、全く暗譜には生かされないからあり、「痴呆の始まりでは決してない!!」と頑なに自分に言い聞かせている。
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