2014年11月30日日曜日

声楽教師と生徒の関係

ホームページをリニューアルしたのを機会に、昨日、教室アピールの意味も込めて、初めての無料発声セミナーを開催しました。(文章が硬いとの指摘を受けましたので、今後は出来るだけ柔らかい文体を心掛けさせて頂きます (^◇^;)

今回は参加者全員が声に悩みを抱える合唱経験者で、非常に真剣に話を聞いて下さり、おかげさまでとても充実した雰囲気の中、話を進める事が出来ました。

クラッシックの発声とそれ以外のジャンルとの発声の違いや、専門的なベルカント唱法の歴史、発声の秘密などをレクチャーしましたが、参加者の反応の中で一つ意外だったのが「声楽教師と生徒の関係」の説明の中で、非常に強い反応を多くの方が示されたことでした。

フレデリック・フースラーはその著書『うたうこと』の中で合唱を歌う事の喉への悪影響について触れていますが、合唱団に所属した事で得られるコミュニケーションの楽しさや音楽に関われる喜びは、誰にでも捨てがたい魅力がある事でしょう。
そういった魅力に惹かれて続けていける人に、私が声への影響を云々言うこと自体、的外れである事は充分承知しており、そういった考え方も尊重します。

今回参加された方々が仰っていたのは、ボイストレーナーの先生を前にすると、専門的な発声方法の難しさと緊張感で委縮してしまい、身体がこわばって声が逆に出にくくなってしまったということでした。

イタリアで声楽の個人レッスンを受けてまず驚くのは、どんなに有名な先生であっても日本人の先生のように、上から目線で指導をする事がないということです。
これはイタリア人のフレンドリーな気質からくる影響もあるかと思いますが、それよりもっと本質的なこと

「歌いたいという欲求が心に宿っているから歌うことができる。」

ということを指導者が本能的に理解しているからだと思います。
イタリア人を形容する言葉で
Cantare(歌い)、Mangiare(食べ)、Amore(愛する)というのがありますが、彼らにとって『歌う』ということは人間の本能的な欲求の一つなのです。

私は日本人の声楽レッスンの中で、先生と生徒の対等的な関係、むしろ生徒の方が上、という関係を作ることは非常に重要な事だと思います。何故なら「(先生に指摘された事を)行おう」と意識する身体の使われ方は、既に自分の声を確認する内向きの使われ方になっているからです。私のレッスンでは指摘された事の受け取り方を事前に決めています。

「そんなこと分かっているよ」

生徒がこのように私の指摘を受け取る事で、身体の使われ方は観客を前に歌うのと同じような状態に近づきます。
この意識の違いは非常に大きいので、大先生を目の前にしても委縮しないで、心で笑ってみて下さい。

「そんなこと分かっているよ(^o^)」

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2014年11月26日水曜日

ホームページリニューアルのお知らせ

既にお気付きの方もいらっしゃるかと思いますが、ホームページのデザインと内容を一部リニューアルしました。
より分かりやすい文体と、曖昧な箇所の具体的説明、配色、スペース等の修正を意識して読みやすくしました。・・・が、 まだ読みにくかったり、文体が硬い (^^;; 所も多いかと思います。
アクセスのページからお問い合わせ頂ければ、分かりにくい箇所は適宜修正していくつもりです。また、発声についてのご質問にもお答え致しますので、ご意見ご感想、お待ちしております。
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2014年11月11日火曜日

messa di voceはベルカントの試金石

声楽の教本を読むと必ず出てくる用語にmessa di voceがあります。イタリア語を直訳すると『声の設置』とでもなるでしょうか。似た用語でmezza voce(半分の声、つまり、息が半分混ざった声という意味)があるので、混同しやすいのですが、全く別の技法です。

messa di voceの解釈は人によって様々で、声楽教本によって解釈が異なっている場合もあり、初心者にとっては本質が非常に分かりにくいテクニックです。
この技術はカストラートが全盛期の頃は恐らく、当たり前のように聴くことが出来たのでしょう。残念ながら、現代ではその超人芸に接する事は出来なくなってしまいました

messa di voceの共通した認識として、"声のピッチ、ポジションを保ちながらクレッシェンドで声量を増幅し、頂点からデクレッシェンドで声量を減らしていく" というイメージがあり、youtubeなどの動画でも幾つかの例を参考にすることが出来ます。
これらの動画を参考にする時、気を付けなくてはならないのが、男声と女声では音域によって事情が異なってくるという事です。

男声、女声共、低声から中声でmessa di voceを行う事は比較的容易であり、初心者でも何も教えていないのに、既にバランスを伴って身につけている人を時々見かけます。
これが音が高くなり、パッサッジョを越えた音域になってくると、女声では正しいテクニックを身に付けた者でないと、喉が閉まり、実現困難になってくるのです。
欧米では学生でも比較的多くの人が出来ているこの技術ですが、声が喉に貼り付く傾向が強い日本人においては、一部の一流の人を除いて、あまりお目に掛かった記憶がありません。ピッチやポジションが間違っている限り、messa dI voceは決して実現出来ないからです。

男声においては、パッサッジョを越えた音域で難しくなるというより、世界中の一流歌手を見ても、この音域でクレッシェンドしてからデクレッシェンドが出来る人は自分が知る限りでは存在しません。(声のポジションをその箇所だけ喉奥に持って行って出す歌手は何人か聴いた事がある)
ファルセットからクレッシェンドで声量が頂点に達した所から一瞬だけデクレッシェンドに入りかける事は出来ても、女声のように、そこから声をずっと絞っていける例を見た事がありません。男声で最もテクニックがある人でも、この音域では最初からフォルテで、その後デクレッシェンドで声を絞っていくのが精一杯で、それだけでも神業と思える程の技術なのです。

messa di voceはベルカント唱法のテクニックで最上位に位置するものであり、それを実現出来るよう、日々、勉強を積み重ねる事が、男女共に我々が進むべき正しい道だと私は思います。

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2014年11月8日土曜日

ゴールが見えるということ

体力作りの為に、時々近くの市民プールに行って泳ぐ事にしている。
10年前には、どんなに死に物狂いで頑張っても500メートルしか泳ぐことが出来なかったが、最近では2キロを泳いでも、全く疲れないようになった。
時々、逆三角形体型の学生とおぼしきスイマーが猛スピードで追い抜いていくのを見て、対抗意識がメラメラと芽生えそうになるが、そういった人種は遠い先祖が魚類だったのだと思うようにし、ひたすらマイペースで泳ぐ事にしている。

距離を少しずつ伸ばしていく積み重ねによって、2キロの遠泳が可能になったが、もう一つ、息継ぎをしないで25メートルが泳げるようになった事もちょっとした自慢だ。
(v^_^)v
肺活量は人並み以下の自分が、これを達成するのは難しいとずっと思っていたが、ちょっとしたコツを掴むことによって、いとも容易く達成してしまったのだ。
そのコツは

"ゴールを見続けること"

それまで、真下を見続けながら泳いでいたのを、15メートルを過ぎた辺りから、前方の水面下に見える25メートルのラインを見続ける様にしたところ、精神的な余裕が生まれ、まるで酸素の予備タンクが備わったかのように息が長持ちするようになり、ゴール迄の腕の力の入れ具合や、水中で息を吐く割合などが自ずと理解出来るようになった。
ホームページで解説しているように、人間は明確な目標を与えると、それを確実にやり遂げようとする本能的な仕組みを持っている。
私の父は生前、76歳で癌が見つかり、「親族で76歳を超えた者はいないので、自分は77歳迄は何としても生きる」と私に話し、77歳の誕生日を迎えて数日後に息を引き取った。
目標がはっきりと見えなかったり、思い描けないと、その目標を達成することは極めて難しくなる。

声楽のレッスンにおいて、ゴールに相当する『理想の声』が出せるようになるには、
 "理想の声が出せた時の自分" がはっきりとイメージ出来ていなければならない。
勘違いしてはならないのは、"理想の声を思い描く" という事では決してないという事だ。
持って生まれた声を磨き上げる事とは、有名歌手の声に近づけるという事ではない。

"ゴールが見える" ということは即ち、そこに到達する可能性を信ずることが出来るということである。これに正しいテクニックが加わって初めて、ゴールへの到達は可能になる。
逆に、いくら正しいテクニックを学んでも、ゴールが見えていない人は、25メートルのラインを目前にして足を着いてしまうのと同じように、目の前にある『理想の声』の存在に気付かず、自分に足りないものを永遠に模索し続ける悪循環から抜け出す事は出来ない。
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2014年11月5日水曜日

フリードリヒ2世の実験

13世紀の初めにローマ帝国皇帝でフリードリヒ2世という人物がいたそうだ。言葉を教わらないで、子供がどんな言葉を話すのか興味を持ち、ある実験を行った。乳母と看護師にミルクや排泄など必要な事は通常の条件にした上で、子供の面倒を見る際、目を見てはいけない、笑いかけてもいけない、話しかけてもいけない、触れ合いを一斉してはいけないと命じた。十分なミルクを与えられていても、愛情をもらえなかった赤ちゃんたちは全員死んでしまう結果になったという。

心理学者のルネ・スピッツが、戦争で孤児になってしまった乳児55人に、同じような実験を行った結果、27人が2年以内に死亡、17人が成人前に死んでしまい、11人は成人後も生き続けたが、その多くには知的障害や情緒障害が認められたということだ。
原因について述べるのは、ここでは割愛するが、身体の成長に伴う、言葉の発達はこのように生命の存続に密接に関わっていることが理解出来る。

歌うことに適した発声器官の理想的な働きは、赤ちゃんが言葉を覚えるにつれて次第に失われていくが、人間が言葉を話す発達によって人間らしい情緒、病気に対する免疫力や抵抗力を身に付けていくと考えれば、今、成人になった我々が発声方法を教えたり、分析することが、いかに神秘的な領域なのかを実感せずにはいられない。

発声を理論だけで解明しようとしても永遠に答えが出ない気がするのは私だけだろうか?
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2014年11月3日月曜日

微笑

無料の公開授業に参加出来ると聞き、言語聴覚士を養成する医療専門学校での講義に参加した。講義を聴くという体験は、20年ぶりだったので少し緊張もしたが、新鮮な気分を味わえた。
タイトルは「子供が言葉を獲得するまで」
赤ちゃんが成長と共に言葉を話すようになる為に必要な事について学んだ。
以前から興味のある分野だったのだが、いざ、講義の中で難解な専門用語を用いて説明されると、なかなかストレートには頭に入って来ない。これが長年、脳を刺激する事を怠ってきたつけなのだろうか?(~_~;)

講義の中で、言葉を話すことが出来るようになるには、人との関係、モノとの関係、音韻の発達が重要になるという事を教わり、その中で興味深い話があった。
赤ちゃんが見せる微笑は、単なる生理的な反応から情動の共有による誘発的な反応へ移行し、最終的に大人が見せるような社会的な外部を意識したものへ変化していくという。
今まで当たり前だと思っていたことが、成長発達という仕組みがあって出来上がっている事に今更ながら気付かされた。

同じグループの参加者の中には、自分と同じ位の世代と思われる女性も2人居たが、半分以上は20代の若者だった。
学校の施設を、在学中の学生が先導して丁寧に説明してくれたが、彼らの殆どは普通大学を卒業してから全くの異分野であるこの世界を志すらしい。社会人としての経験を積んでから新たに入学する30代、40代の学生も非常に多いと聞いた。

帰りの電車の中で、中学2、3年生くらいの脳に知的障害を持っていると思われる男の子を連れた3人家族と居合わせた。
お父さんは色々な心配や心労もあるのだろう。無表情に外の景色を見ている。
お母さんは子供が興奮して飛び出さないよう、電車が停車してドアが開く度に腰に手を廻して優しく支えていた。
両親2人に会話はなく、2人の大人が見つめる中でその少年は時々、見知らぬ人に向かって手を振ったり、ぶつぶつと独り言のように何かを呟いていた。
電車が再び走り出し、対向車とすれ違った瞬間、その男の子は突然奇声をあげ、窓の外の誰かに手を振りだした。車内の視線は一斉にその子に注がれ、静まり返った車内で男の子の奇声だけが響いていた。
次の瞬間、お父さんはその男の子を力強く抱擁し、男の子は安心したのか、やがて静かになった。様子をずっと見ていた私の目に入って来たそのお父さんの顔には、私が今まで見たこともないような安らぎと慈愛に満ちた微笑みが浮かんでいた。

ディズニーランドの最寄駅で降りていったその3人の親子の背中には、楽しそうにミッキーの話をしながらはしゃぎ回る子を連れた、近くにいた家族の何倍もの愛が宿っているような気がして 目頭が熱くなった。