ひと月ほど前に購入し、そのままにしていた「長渕語・録 ぼちぼちしてらんねえ」をじっくりと読んでみた。学生時代に後輩から勧められてレコードを聴いたのがきっかけでファンになり、アルバムを買って、彼の出演したテレビドラマは毎回、欠かさず観たものだ。ライブに行って声援で声を枯らし、翌日の声楽のレッスンで先生に怒られたのも今となっては良い思い出だ。 (≧∇≦)
我々声楽家が「歌う」という表現の為に「喜び」「幸せ」といった、どちらかと言うと「そういう気持ちでないと歌えない」という、正しく歌う為の半原則のような意味合いで感情を持つのに対し、彼は「怒り」「悔しさ」といった感情をストレートに表現する為に、敢えて自分の声を潰したり、肉体を鍛え上げて、偽りのない内面から自然に出てくる感情にこだわり抜いている。人が作った歌を、より芸術性を高めて観客に提供しようとする職業と、自分の内にある感情を音と歌詞に焼き付け、観客にそのメッセージを伝えようとする職業という根本的な違いはあるにしても、歌手という表現者は、常にそういった自分の偽りのない魂の声に耳を凝らしておく必要があると思う。
魂の声は、どん底まで落ちた経験があるから真の幸せの感覚が理解出来たり、みっともない悔しい体験をしたことがあるから、同じような状況の人を心から応援して励ましてあげたくなるように、決して人がそうなりたいとは望まない体験を通して育まれるような気がする。
つまずいた時、泣きたい時に手に取って読んでみると、その飾り気の無い言葉がストレートに体に入り、生きようとする力が湧いてくる。
上品なオペラに食傷気味の時にオススメの一冊である。
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東京都多摩市にて伝統的ベルカント唱法の指導を行っています。パッサッジョやアクートなどでお悩みの方、専門技術を身に付けたい方の為の教室として、評価を頂いております。このブログでは日々、声について思う事を思うままに綴っています。 詳しい情報はホームページで http://tamadeseigaku.com
2014年9月30日火曜日
2014年9月23日火曜日
東京お笑い歌劇場「ドン・パスクワーレ」ハイライト公演のお知らせ
来月10月4日(土)19時より 巣鴨 スタジオ・フォーにて行われます。
私はエルネスト役で出演致します。定員制(50人くらい?)とのことですので、チケットご希望の方はメール頂ければ確保させて頂きます。 osyarebag@gmail.com
公演の詳細は http://fresiagroup.web.fc2.com で確認願います。
私はエルネスト役で出演致します。定員制(50人くらい?)とのことですので、チケットご希望の方はメール頂ければ確保させて頂きます。 osyarebag@gmail.com
公演の詳細は http://fresiagroup.web.fc2.com で確認願います。
2014年9月10日水曜日
マリオ・ランツァの声について考える
コンサートで歌うBecauseという曲の参考にする為、「歌劇王カルーソー」という古い伝記映画のビデオを観た。Becauseは映画の中で、カルーソーの娘が誕生したシーンで、我が子に対する父親の想いとして歌われている名曲だ。
この映画の中でカルーソー役を歌い、演じているのが、かつて一世を風靡したアメリカ人テノールのマリオ・ランツァで、彼は38年という短い生涯の中で多くの音楽映画に出演し、今だに世界中に多くのファンを持つ伝説的歌手である。彼の歌い回しやレパートリーの選び方については声楽の専門家からは異論が多いと聞くが、他のオペラ歌手が持ち合わせない、独特の開放感のある歌唱の魅力は今日でも捨てがたいものがある。
一昔前、某声楽コンクールの本選会場で配布されたパンフレットにマリオ・ランツァについての審査委員長の記述があった。レコードでは非常に声量のある声に聞こえる彼の声は、マイクを使わないオペラの舞台では蚊の鳴くような声にしか聴こえなかったという。
自分が留学していた頃、イタリアのヴェローナ音楽祭のメリーウィドーに出演したテノールのアンドレア・ボチェッリを聴いた時も、他のオペラ歌手と比較して蚊の鳴くような声にしか聴こえず、マイクを日常的に使う歌手の発声の盲点に気付かされたことを思い出した。
現代の優れた録音機器で収録された音源から、こういった生の舞台での声の飛び方の特性を想像するのは非常に難しく、実際に生の声を聴くと、想像していた声の飛び方と全く違う事に驚かされる事も多い。これはスタジオで収録する際、モニター音としてマイクで拾われた自分の声を聴きながら歌ってみると原因を明らかにすることが出来る。
声楽家は骨伝導を通して自分に聴こえる声と、外で他の人に聴こえる声が全く違うことを理解し、正しい共鳴の感覚を頼りに歌わなくてはならないが、モニターから出てくる身体の外で鳴っている自分の声を聴いてしまうことにより、骨伝導を通した聴こえ方が封印され、自分に聴こえる声と外で聴こえる声が全く同じになってしまい、正しい共鳴のバランスを崩してしまう。マイクを使わない舞台で歌った時にその影響は初めて明るみに出ることになる。
生の声がどうであれ、マリオ・ランツァは多くの優れた録音を残し、その声は録音媒体によって永遠に人々を魅了し続けるであろう。
自分のコンサートを聴いたお客様が、せめて、その日の夕飯のメニューを考えるまでは声の余韻に浸って貰えるような、自分はそんな存在でありたいと思っている。(⌒-⌒; )
http://belcanto.jpn.com
この映画の中でカルーソー役を歌い、演じているのが、かつて一世を風靡したアメリカ人テノールのマリオ・ランツァで、彼は38年という短い生涯の中で多くの音楽映画に出演し、今だに世界中に多くのファンを持つ伝説的歌手である。彼の歌い回しやレパートリーの選び方については声楽の専門家からは異論が多いと聞くが、他のオペラ歌手が持ち合わせない、独特の開放感のある歌唱の魅力は今日でも捨てがたいものがある。
一昔前、某声楽コンクールの本選会場で配布されたパンフレットにマリオ・ランツァについての審査委員長の記述があった。レコードでは非常に声量のある声に聞こえる彼の声は、マイクを使わないオペラの舞台では蚊の鳴くような声にしか聴こえなかったという。
自分が留学していた頃、イタリアのヴェローナ音楽祭のメリーウィドーに出演したテノールのアンドレア・ボチェッリを聴いた時も、他のオペラ歌手と比較して蚊の鳴くような声にしか聴こえず、マイクを日常的に使う歌手の発声の盲点に気付かされたことを思い出した。
現代の優れた録音機器で収録された音源から、こういった生の舞台での声の飛び方の特性を想像するのは非常に難しく、実際に生の声を聴くと、想像していた声の飛び方と全く違う事に驚かされる事も多い。これはスタジオで収録する際、モニター音としてマイクで拾われた自分の声を聴きながら歌ってみると原因を明らかにすることが出来る。
声楽家は骨伝導を通して自分に聴こえる声と、外で他の人に聴こえる声が全く違うことを理解し、正しい共鳴の感覚を頼りに歌わなくてはならないが、モニターから出てくる身体の外で鳴っている自分の声を聴いてしまうことにより、骨伝導を通した聴こえ方が封印され、自分に聴こえる声と外で聴こえる声が全く同じになってしまい、正しい共鳴のバランスを崩してしまう。マイクを使わない舞台で歌った時にその影響は初めて明るみに出ることになる。
生の声がどうであれ、マリオ・ランツァは多くの優れた録音を残し、その声は録音媒体によって永遠に人々を魅了し続けるであろう。
自分のコンサートを聴いたお客様が、せめて、その日の夕飯のメニューを考えるまでは声の余韻に浸って貰えるような、自分はそんな存在でありたいと思っている。(⌒-⌒; )
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2014年9月6日土曜日
新曲を暗譜する際に注意したい事
12日のコンサートまで残すところ一週間となり、曲の仕上げに追われている。今回は得意のイタリア語に加えて、スペイン語、フランス語、ドイツ語、日本語、英語が加わるので暗譜に要する時間も長大だ。
自分にとって、ラテン語の部類に属する、イタリア語、スペイン語、フランス語は比較的暗譜するのも早く、感情移入もし易い。また、義務教育で時間をかけて学んだ英語も、発音にこそ気を使うものの、比較的早く暗譜できるのだが、ドイツ語、日本語に関しては毎回暗譜に苦戦している。
子音の処理など、発音に気を使う英語、ドイツ語に苦戦するのは、自分でも納得がいくのだが、(恐らく?)生粋の日本人である自分が日本語の暗譜に苦戦するのはなぜなのだろうか?
家の中である用事を思い出し、それを行おうと別の部屋に移動した瞬間「はて? 何をしに来たんだっけ?」という軽い記憶喪失に陥ることが近頃良くあるのだが、「痴呆の影が忍び寄っているのでは?」という不安が脳裏をかすめる……………( ̄◇ ̄;)。
自宅でのレッスンで生徒さんに次のレッスンまでに新曲を暗譜してくるようにお願いすると、ほとんどの人は完璧に暗譜をしてきてくれる。このこと自体は本来、褒めてしかるべきことなのだが、レッスンで発声のポジションを矯正していくと、面白いことに、ほとんどの人が歌詞を思い出せなくなってしまう。
これは彼らが、歌詞を言語としての不自然さがない事を最優先にしたポジションで、練習をしてきたので、レッスンで母音の響きを多くするポジションに移行されたことによって記憶の通り道が変わってしまい、起きる症状のように思う。
自分が日本語での暗譜に思いの外、時間がかかるのも、日本語を言語として認識できるポジションではなく、ベルカントの正しい母音のポジションで歌うことを優先しているために日本語ネイティブという特権が、全く暗譜には生かされないからあり、「痴呆の始まりでは決してない!!」と頑なに自分に言い聞かせている。
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自分にとって、ラテン語の部類に属する、イタリア語、スペイン語、フランス語は比較的暗譜するのも早く、感情移入もし易い。また、義務教育で時間をかけて学んだ英語も、発音にこそ気を使うものの、比較的早く暗譜できるのだが、ドイツ語、日本語に関しては毎回暗譜に苦戦している。
子音の処理など、発音に気を使う英語、ドイツ語に苦戦するのは、自分でも納得がいくのだが、(恐らく?)生粋の日本人である自分が日本語の暗譜に苦戦するのはなぜなのだろうか?
家の中である用事を思い出し、それを行おうと別の部屋に移動した瞬間「はて? 何をしに来たんだっけ?」という軽い記憶喪失に陥ることが近頃良くあるのだが、「痴呆の影が忍び寄っているのでは?」という不安が脳裏をかすめる……………( ̄◇ ̄;)。
自宅でのレッスンで生徒さんに次のレッスンまでに新曲を暗譜してくるようにお願いすると、ほとんどの人は完璧に暗譜をしてきてくれる。このこと自体は本来、褒めてしかるべきことなのだが、レッスンで発声のポジションを矯正していくと、面白いことに、ほとんどの人が歌詞を思い出せなくなってしまう。
これは彼らが、歌詞を言語としての不自然さがない事を最優先にしたポジションで、練習をしてきたので、レッスンで母音の響きを多くするポジションに移行されたことによって記憶の通り道が変わってしまい、起きる症状のように思う。
自分が日本語での暗譜に思いの外、時間がかかるのも、日本語を言語として認識できるポジションではなく、ベルカントの正しい母音のポジションで歌うことを優先しているために日本語ネイティブという特権が、全く暗譜には生かされないからあり、「痴呆の始まりでは決してない!!」と頑なに自分に言い聞かせている。
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2014年8月28日木曜日
アリアの重い軽いについて考える
コンサートのプログラムに加えるか検討するため『道化師』の ”衣装をつけろ” を練習している。
この曲は20代の頃に何度か歌ったことがあったが、発声について表面的な理解しかしていなかった当時は、狭い練習室の中で喉を締め付けながら、繰り返し練習したものである。今振り返ると、若さゆえの無謀さにあきれ果てるばかりだが、この曲を繰り返し練習しすぎることは、パッサッジョ音域で喉が固まり易く、発声がかなり完成された現在でも、声の調子を崩す危険性と常に隣り合わせであると言える。
一般的に音楽学校や音楽大学で重めの曲を試験曲に選ぶと、先生方には、かなり白い目で見られ、軽めの曲を持ってくるように指導される事が多い。若いころの自分も例外ではなく、ヴェルディ後期の重めのアリアを選ぼうとすると、「もう少し年月が経って声が熟してからにしなさい!」とよく忠告を受けたものである。
声が完成されていない若い時期に重めのアリアを練習する事は確かに好ましいことではない。ただ、そのアリア一曲が重めのものであるのか、オペラ全体が重めのものなのかを指揮やピアニスト出身の先生が混同しているのを時々感じることがある。テノールのアリアでいえば、ジョコンダの「空と海」やアフリカの女の「おおパラダイス」、エルナー二の「ありがとう愛する友たちよ」等は日本ではほとんど歌われる事はないが、パッサッジョの練習には非常に適した曲であり、オペラのイメージから連想されるような声の重さや負担は、正しいパッサッジョの克服によって、ほとんど問題なく回避することができる。
声楽の先生でも、そのオペラが重めのものであるという理由から、実際にそのアリアを自分で歌うことを最初から敬遠し、先入観で「重いアリアだから生徒には危険!」と決めつけているケースもあると思う。
こういった例外的な曲こそ、声楽を学んでいる人にもっと取り上げて欲しい曲であり、テノールで ”衣装をつけろ” を歌うのであれば、その前に必ずマスターする必要のある曲だと思っている。
声質が軽めのテノールが ”衣装をつけろ” を歌うことは通常はあり得ないことだが、日本ではそういった常識は無視されており、あちこちの舞台上で声が崩壊寸前の道化師が「喜劇は終わった!!」と泣き崩れている。
これとは逆に、高音を含まない一つの声区だけで成り立っている曲を繰り返し練習する事も大変に危険なことであり、日本では初心者に適していると考えられているのか、五線の上の音が出てくる曲をかなり後になってから取り組ませる傾向があるように思う。
このパッサッジョを含んだ曲を初心者の声楽レッスンで後回しにする傾向は、日本人のパッサッジョの克服を難しくしている大きな要因の一つになっていると私は思う。
パッサッジョは声の重心の感覚が重要であり、初心者がパッサッジョが存在しない高音のない曲ばかりを歌っていると声の重心の感覚は下がり、それがすりこみによって定着してしまう。
これは大変に危険なことであり、五線の上と下を適度な割合で上下していないと声の柔軟さは次第に失われていき、レパートリーを拡張していくこともできなくなってくる。初心者が古典歌曲から始める際も、こういったことを考慮して慎重に調性を選ぶ必要がある。長期的に見れば、こういった配慮が声の負担を減らし、高齢になっても若々しい声を保つ一つの要因になるのだと思う。
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この曲は20代の頃に何度か歌ったことがあったが、発声について表面的な理解しかしていなかった当時は、狭い練習室の中で喉を締め付けながら、繰り返し練習したものである。今振り返ると、若さゆえの無謀さにあきれ果てるばかりだが、この曲を繰り返し練習しすぎることは、パッサッジョ音域で喉が固まり易く、発声がかなり完成された現在でも、声の調子を崩す危険性と常に隣り合わせであると言える。
一般的に音楽学校や音楽大学で重めの曲を試験曲に選ぶと、先生方には、かなり白い目で見られ、軽めの曲を持ってくるように指導される事が多い。若いころの自分も例外ではなく、ヴェルディ後期の重めのアリアを選ぼうとすると、「もう少し年月が経って声が熟してからにしなさい!」とよく忠告を受けたものである。
声が完成されていない若い時期に重めのアリアを練習する事は確かに好ましいことではない。ただ、そのアリア一曲が重めのものであるのか、オペラ全体が重めのものなのかを指揮やピアニスト出身の先生が混同しているのを時々感じることがある。テノールのアリアでいえば、ジョコンダの「空と海」やアフリカの女の「おおパラダイス」、エルナー二の「ありがとう愛する友たちよ」等は日本ではほとんど歌われる事はないが、パッサッジョの練習には非常に適した曲であり、オペラのイメージから連想されるような声の重さや負担は、正しいパッサッジョの克服によって、ほとんど問題なく回避することができる。
声楽の先生でも、そのオペラが重めのものであるという理由から、実際にそのアリアを自分で歌うことを最初から敬遠し、先入観で「重いアリアだから生徒には危険!」と決めつけているケースもあると思う。
こういった例外的な曲こそ、声楽を学んでいる人にもっと取り上げて欲しい曲であり、テノールで ”衣装をつけろ” を歌うのであれば、その前に必ずマスターする必要のある曲だと思っている。
声質が軽めのテノールが ”衣装をつけろ” を歌うことは通常はあり得ないことだが、日本ではそういった常識は無視されており、あちこちの舞台上で声が崩壊寸前の道化師が「喜劇は終わった!!」と泣き崩れている。
これとは逆に、高音を含まない一つの声区だけで成り立っている曲を繰り返し練習する事も大変に危険なことであり、日本では初心者に適していると考えられているのか、五線の上の音が出てくる曲をかなり後になってから取り組ませる傾向があるように思う。
このパッサッジョを含んだ曲を初心者の声楽レッスンで後回しにする傾向は、日本人のパッサッジョの克服を難しくしている大きな要因の一つになっていると私は思う。
パッサッジョは声の重心の感覚が重要であり、初心者がパッサッジョが存在しない高音のない曲ばかりを歌っていると声の重心の感覚は下がり、それがすりこみによって定着してしまう。
これは大変に危険なことであり、五線の上と下を適度な割合で上下していないと声の柔軟さは次第に失われていき、レパートリーを拡張していくこともできなくなってくる。初心者が古典歌曲から始める際も、こういったことを考慮して慎重に調性を選ぶ必要がある。長期的に見れば、こういった配慮が声の負担を減らし、高齢になっても若々しい声を保つ一つの要因になるのだと思う。
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2014年8月13日水曜日
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